2019年10月01日 に初出の投稿

Last modified: 2019-10-01 09:14:39

何かの学術分野で概論や入門書を読んだことがある人なら、そういう書籍の冒頭では当該分野の「独自性」なるものが切々と訴えられているのをご存知だろう。特殊な分野であればなおさら、それを特別に研究しなくてはいけない理由というものを、プロパーは力説する責務があるらしい。もちろん、「科学哲学」などという常識的には奇怪な印象を与えるらしい分野でも、一見すると「キーボードバナナ」と書かれているように見えるため、これがそもそも日本語の語句として文法間違いではないという話から説く人もいるほどだ。

さて、そういう状況で頻繁に持ち出されるレトリックの一つを使えば、その分野が独自の、つまりは他の分野で採用されている観点や取り組み方に還元できない「レベル」とか「パースペクティブ」とか「方法論」をもつと言えるだろう。しかし、それが鶏なのか卵なのかは、これも認識論と存在論の優位性に関する循環した(と思える)議論と同じように、結局のところ彼らが提唱するパースペクティブやらレベルやら方法論によって、どういう業績が上がるのかということでしか評価しようがない。単にその分野を長期間にわたって学ぶことによって納得するということでしかなければ、それは自分の習慣を維持しようとする惰性によるのか、それとも当該分野の妥当性によるのかを区別して論証することは、実はプロパーだからこそ難しいのである。プロパーがミイラになってしまったミイラ取りでないと、彼ら自身に論証させるのは危険である。

そういうわけで、こういう状況で哲学のようなアプローチが採用されるのは、哲学というアプローチを説明するために有効な一つの議論かもしれない。ただし、僕は注意深く「哲学というアプローチ」の妥当性についてしか語っていないという点に留意してもらいたい。僕は「哲学者」や「哲学のプロパー」がやっていることの妥当性について語っているわけではないからだ。

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