2019年09月13日 に初出の投稿

Last modified: 2019-10-01 21:06:57

以前も書いたように、差別にかかわる原理的な考察や研究の大半は、まず《差別は良くないことだ》という前提から出発する。したがって、その内容は差別の研究を自称していながら、実質的には差別の解消や差別の否定を論じている。そのような研究は、たとえ筋が通っているとしても、恐らくは特定のイデオロギーを裏書きするものでしかない。哲学的に言えば、どれほど冷静に書かれているにせよ、そこには《差別はいけない、いけないんだ!》というヒステリックな叫びがあるだけだ。

それゆえ、差別の思想なり原理なり哲学なりを公表している事例は非常に少なく、恐らくそこには倫理学者や社会学者として何らかの困難を生じるのだろうと推測する他にない。もし彼らの一部が(有能であり)そういうポイントに気づいていながら、論説として公に展開することが憚られるのであれば、恐らくその理由の一つは、誤解に基づく謂れのない非難や反感をいたずらに生じたくないという意図があるのだろう。

そうしたタブーや偏見なしに考えてみれば、たとえばこういう議論も可能だろう。仮に「差別」が、外見ではどう見ても区別なり特定のしようがない個体についてであっても、行動様式や発言内容に関連付けられた観念で一つの集団の成員として categorize (grouping, partitioning, etc.) することだとしてみよう。もちろん、黒人差別のように、外見だけで白人と区別がつく個体の集団を差別するという事例も世界中にあるわけだが(日本でも、およそ何の根拠もなしに「朝鮮人は見ただけで分かる」と豪語する老人がいまだにいるだろう)、それは単に今述べたような社会心理学的な能力や傾向が《適用しやすい》事例というだけのことである。さて、するとここには、差別が或る意味で《高度な認知能力》だと考える可能性について議論する余地があると言える。もちろん、こう書いただけでも、「おまえは差別を擁護するというのか!」という、安っぽい正義漢どものヒステリーを呼び込むことは容易に想像がつく。

しかし、差別に関するいくつかの論説には、差別(感情・意識)というものは何らかの条件が揃うと常に生じてしまう余地があり、それゆえ我々は《差別を解消する》ということを認知能力の生理的な矯正のような理想として描いてはいけないのであって(それは単なる抑圧であろう)、差別してしまった自分自身に対する反省なり軌道修正として描く方がよいと主張するものがある。このような論説においては、何かを差別するということがヒトとしての心理や認知の一つの自然なパターンとして仮定されている可能性がある(「自然な」と書いたが、もちろん「当然の」という意味は含んでいない)。

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