Scribble at 2019-07-29 16:02:11 Last modified: unmodified

当サイトで掲載している、死への恐れについて書いた雑文が放置されてから暫く経過している。盂蘭盆会が近いという事情も念頭にはあると思うけれど、色々な機会に再び考えている。やはり大きなテーマとしては、まじめにじっくり考えたら死が恐ろしいと感じるような人々でも、結局はその大半が慌てず狼狽もせずに世界中で続々といまでも死んでいっているように思えるという事実についてである。凡人は凡庸であるがゆえに、その恐ろしさについて想像が及ばないのか・・・それはあまりにも馬鹿にし過ぎている。それなら逆に、高尚な考えに至ったり達観した人物であれば、彼女らもまた死を恐れずに済むのだろうか・・・それもあまりに過大評価しすぎであろう。もちろんヒトという生物の生理や医学的な理解としては、死ぬ寸前になると認知能力が低下して、怖いもクソもなくなるというのが現実だと思う。要するに死ぬ寸前には生物としてヒトの個体であっても、哲学や倫理学で言うところの person、あるいは QOL の主体とは言えない状態となるのであろう。しかしそうなると、死ぬ寸前に認知能力が無くなるなら、その認知能力が無くなる寸前はどうして怖くないのかという後退が始まる。無論、人は誰しも分析哲学者として死んでいくわけでもなんでもないのであるから、こんな《主観パズル》をどう解いていこうと、パズルを単に解くだけでは無意味である。Analysis に3ページていどのペーパーを投稿しただけで気楽に死ねる人などいまい。

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