2019年07月03日 に初出の投稿

Last modified: 2019-07-03 12:33:14

なんで哲学で障害とか差別というテーマを扱わないのかという疑問はある。たいてい、その疑問に対する応答として、そういうテーマは社会科学(社会学者)がやることだという言い方があって、"handicapped" や "blind" や "disability" という概念を分析したところで、社会科学としては一般論になりえても、哲学としての議論までには移行せず、現実的な効用を考えたらその必要もないだろうと思っている人が多いのである。しかし、これは哲学についてプロパーですら錯覚に陥る事例だと言える。なぜなら、そのような考え方は、特定の分野に限定されない抽象的な概念についての普遍的な議論や論証を「哲学」の本質だと見做していることに等しいが、それは自明でもなんでもないからだ。

哲学の教科書にもたびたび見受ける基本的な誤解として、哲学には何か独特な議論のレベルやステージみたいなものがあり、そこへ《上昇》することが必要だとされる。そこでは、"digit designators" だの "counterfactuals" だの "single-case probability" だのという哲学専門の概念(これを更に哲学専用の「言葉」のセットとして説明する、更に愚かな人もいるわけだが。実際、哲学用語辞典などと銘打って本を書いている人々のうち、どれだけの人が正確に理解しているのだろうか)だけが存在を許されており云々・・・これではまるでオウム真理教の施設みたいなものだ。このような描写で哲学や学問を説明するような手合いに、学者としても教育者としてもロクな人はいないと思う。

したがって、philosophy of causation の著作を読んでいてもたびたび感じることなのだが、「レベル」という考え方を安易に持ち込む人たちというのは、結局のところそういう図像化によって無視されたり議論から抜け落ちたり、あるいは不当にステレオタイプとなったり、思い込みの固定化に寄与したりというリスクがありうるということを、どのていど自覚しているのだろうかと思わざるをえない。社会科学として差別や障害を考えたり理解したり議論している「レベル」というものと、哲学として何らかの概念や論証を吟味している「レベル」が違うとは、どういうことなのか。言葉としては通俗書でも専門書でも使われるわけだが、それが物理的な実体ではなくても一定の正確な意味合いや規則性を仮定して使われていなければいけない以上、それを明示したうえで議論できていない論説は、やはりどれほど表面的に分かりやすい言葉を扱っていようと、その概念を厳密に理解したうえで展開されているとは思えないのである。

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