2019年08月19日 に初出の投稿

Last modified: 2019-08-19 08:08:46

広く口にされたり思い込まれているような、通俗的と言いうる考え方や誤解や偏見も、時として「常識」と呼ばれている。もちろん、常識を established and valid result というニュアンスを含めて使う場合は、一種の権威としてロゴロジーやレトリックの道具になるから、実際には allegedly であるとは言え、怪しいものの見方を「常識的には云々」と書かれている場合もある。困るのは、それが無自覚であることも多いという点であろう。もとより僕らも含めた凡俗というものは、自分がどのていどの偏見や思い込みでものを考えたり語っているのか、いちいち精査したうえで書いたり語っているわけではないため、これまた俗説としての《思考の経済》だとか《地に足を付けた議論》だとか《現場の意見》だとか言った数々の屁理屈を並べ立てて、ものを調べたり学んだりする準備や責任を遠ざけようとする。

もちろん、或る事柄について十分に妥当と言いうる議論をするために必要な知識や経験を身につけておかなくてはいけないという原則を厳格かつ正確に適用すれば、本来は哲学者と呼ばれる多くの人々がそうなるように、無限遡行と思えるかのようなプロセスが要求されることとなる・・・というのも、実はメタ・レベルの議論としては俗説であり、そんなわけはない。仮に《意味》と呼ばれる何かをめぐって、その定義に使われる語句についても《意味》を正確に定めるために定義を求めてゆくという遡行をやったとしても、小学生のときに数日だけ流行するような、国語辞典で或る言葉の意味を調べたら分からない言葉があったので、その意味を調べると、もともと調べていた言葉が説明に使ってあって・・・という、実は誰もその例を挙げたためしがない都市伝説のような思い込みだけで、そういう作業には意味がないと即断するだけであろう。そういう凡俗の口答えこそ、実は全く《地に足の付いていない》議論、僕が普段から言うところの《哲学の素人や凡俗こそ、die hard な観念論者である》という実態に他ならないのである。

そうした思い込みは、もちろん学術研究者の多くにも認められる。その典型は、《理系の著作は(的確に)短くて、文系の著作は(無駄に)長い》という、愚かな偏見である。もちろん、現実に数多くの理数系の著作を知り、そして人文系の著作も知るような人であれば、前者には数多くの反例があると並べられるだろうし、後者にも数多くの反例があると言いうるだろう。例えば、理数系には Principia Mathematica という大部の著作があるし、人文系には・・・まともな教育を受けた日本人なら誰でも気づくはずだが、短歌や俳句がある。そして、ここで「俳句は『著作』ではない」とか、「理数系で短いと言っているのは2ページくらいで終わる論文のことだ」と言うなら、それこそがその人物の見識のなさや偏見、あるいは自分の思い込みに都合の良い条件を無言で付け加えて議論する卑劣さを自分自身で表明するようなものだ。

そもそも、著作の分量が長いとか短いと言いうる指標はなんであろうか。学術の成果として、そのテーマや取り組んだ研究の内容によって、必要と考えられる分量を決めるのも、「学術」と呼べる実務のあり方であろう。そこに《研究成果の著作は、分量が短ければ短いほど良い》などと言ってみたところで、何に関して何が良いのであろうか。その明確な指標や根拠がない限りは、それもまた一つの思い込みでしかなく、ページ数が多いほど「がんばった」などと評する愚劣な人々や、ページ数が短いほど「スマート」であると評する(これまた)愚劣な人々、要するに何であれ学術研究者として愚劣な人々のたわごとにすぎまい。

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