2019年04月15日 に初出の投稿

Last modified: 2019-04-20 23:41:28

2019年に蘇った『トロッコ問題』について

こういう定番の話題を扱った本やブログ記事や雑談の大半が非常に下らないお喋りにすぎず、そして大多数のお喋りさんたちは実のところトロッコ問題なんてものは自分が生きるにあたって全く必要でもなんでもない。したがって、そういう問題は、それについて学んだり考えたり喋るだけの切実な何かを抱える者など一人もいない、哲学とか倫理学などと呼ばれているだけの遊び場で「情報処理」されてきたネタにすぎない。サンデルなどは、その手のジャングルジムで昇ったり降りたりして遊び続けているスノッブの典型だろう。

僕がこういう哲学的な玩具を弄ぶ連中に知的退廃しか感じないのは、「これ」に関連する論文をたくさん読んでるやつがいつでも口火を切るという風習に始まって、つまるところ、読んでる論文や本の数だけが勝負のマウンティング合戦になっているとしか思えないからだ。特に日本のプロパーというのは、誰がどう見ても単なる「おりこうさん競争」をしているとしか思えないのであって、ジャングルジムでいちばん高いところに昇ってるのは誰なのかということにしか興味がない、まったくもって俗物としか言いようが無い連中だからだ。

なので、このブログ記事の著者は哲学や倫理学のプロパーではないけれど、こういうどうでもいいことに時間を浪費するのは止めた方がいいと思う。プロパーは、A よりも B の方が考え方として進んでいるという明白な議論を積み上げたり、簡単にどちらが良いとは言えない論点をオープンのまま据え付けたりして、議論の全体像をさっさと一冊の本にまとめて世間に提示するべきである。そして、それが終わったら自分たちの次の一歩を踏み出せばよいのであって、いつまでも同じところで自分の尻尾を追いかける蛇のように言葉とクオリアを追いかけ続けるのはやめてもらいたい。

トロッコ問題の回答なんてものは、「状況による」に決まっているのだ。たとえば5人の中に自分の連れ合いがいたら1人の側に死んでもらうし、1人の側が自分の連れ合いなら5人だろうと死んでもらう。あるいは、5人の中には自分の親がいて、1人の側が自分の連れ合いでも、たぶん5人の方に死んでもらうかもしれない。しかし、そんなことは「5か1か」などという単純な選択肢の是非を議論するだけでは何の役にも立たないのであって、この手の問題は「単純ではない色々な理由や判断について議論させること」が目的なのである。したがって、自分なりの結論を出したら、そのとおりに実行できるときは実行するしかないのだ。その後に新しい論文や本を読んで誰かにマウンティングされていないかどうかを気にするのは、プロパーのような職業的偏執という生き方にコミットした(という自覚がある有能な人間)だけでよい。しかも、彼らの大方は科研費が通ったらその予算の範囲でだけものを考えるような俗物なので、実は偏執的にフォローしていても大した成果は上げられない。それは既に日本の哲学という事実が証明している。

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