Scribble at 2019-04-15 14:22:17 Last modified: 2019-04-15 22:09:34
これまで何度か書いてきたように、自然科学者が philosophy するケースやチャンスがあってもいいし、哲学者が science するケースやチャンスがあってもおかしくない。しょせん、或る生物個体の行動を「哲学者」として記述する安定した指標などというものは、社会的な擬制として World III に措定されたところにしかない(というか、その措定自体が社会的な合意にしか支えられていないのだが)。そして、そういう擬制としての「立場」とか「身分」ですら、実際にはそれをどう理解したり使うかは我々自身にかかっているのであるから、生物個体の認知能力の限界において様々な偏りや誤差が生じる(それを一概に「間違い」や「悪意」と断定していいかどうかは自明ではない)。
よって、まずこのような記事を取り上げるときに強調しておきたいのは、トマス・クーンが「哲学者」なのか「科学史家」なのか、あるいは「科学哲学者」なのかという話は、はっきり言って哲学的にはどうでもよいことである。そういう前提のもとに「科学史家なのに、彼は~」とか「科学哲学者である彼は~」という思い込みの含意をともなった推論を展開しても、僕にしてみればそういう議論は社会科学的なセンスから言って論点先取でしかない。
クーンを上記のように理解する人は、もちろんこれまでにもいた。つまり上記の引用によると、1960年代当時の科学哲学は、もしクーンを代表なり最前線として挙げてよいなら、哲学的にはカントの業績から一歩も前には進んでいなかったと言える。