2019年04月13日 に初出の投稿

Last modified: 2019-04-13 23:08:35

現代の英米哲学はラッセルに始まる散文のスタイルで straightforward に議論するという良い習慣を築き上げた、というのが竹尾先生の論評だった。僕も(後で指摘するが、プラグマティズムや科学哲学は異なる経緯も含むので、「英米哲学」と言っても文体を必要条件としているわけではないという、実は重大かもしれないポイントを無視するなら)同感で、これはつまり言語についての哲学的な考え方を、自らの表現にすすんで適用した結果でもあろうと理解している。

したがって、言語について同じ思想を共有する者(別に分析哲学のプロパーでなくても何でもいい)が、ハイデガーや廣松やデリダと同じく奇怪な造語をまくし立てるスタイルで議論するのは、信じ難いことでもある。安易に仏教用語を借りたり、あるいは単語の一部を組み替えたり、それどころか全く新しい漢語を作るなどという、僕らに言わせれば小手先のハックを繰り返して《意味》なるものが固定できるとか保存できるとか、あまつさえ他人に伝達もできるなどという発想そのものが非科学的であり、事実にも反していると思うし、理想ですらないと言える。

「コミュニケーション」の理論の最終到達地点は、どう考えても脳内の物理化学的な反応の共有か、あるいは同じ条件を生み出す刺激であり(つまり、それ以外の「環境」や「外界」の所与などというセンチメンタルな思弁を誘う逃げ場所など不要である)、言葉の正確な表記や理解などではない。言ってみれば、straightforward な議論というものは、デリダやハイデガーの研究者には意外かもしれないが、言語に対する絶望や不信によって支えられていて、実は強烈なシニシズムを含意しているのだと思う。なんと言っても、ラッセルはイギリス人なのだ(笑)。

これを仮定すると、どれほど難解な造語を考え出したり、色々な文法上の技巧をひねり出そうと、《哲学的には》無意味であるという方針の意味が分かるだろう。であれば、われわれは手持ちの道具を使って議論し続ける方がマシというものだ。現代の mathematical logic を構築する古典的な業績を打ち立てた一人でもあったラッセルが、哲学的な議論の形式化というものに殆ど興味を示さず、実際に彼の著作がウィトゲンシュタインやチザムの著作とは違って、原則として読み物としての文体を保っていたのは、彼にはハイデガーやカルナップらとは違う信念があったのだろう。

そして、これは他の文脈の話にもなるが、プラグマティズムと分析哲学・科学哲学とのズレという議論とも合わせて、そろそろ「現代の英米哲学」という雑な表現で議論するのは、せめてプロパーにはどうにかしてもらいたいというのが僕の願望だ。そういう表現で、或る人々は分析哲学のことを言ってみたり、科学哲学も含めてみたり、ラッセルやムーアやウィトゲンシュタインやパースやカスタニェーダやコリングウッドやラムジーが含まれるのかどうか微妙な議論をしたり、あるいは気軽にマクタガートや他の(とりわけ20世紀初頭の Mind や Philosophical Review に書いていた)人々も合わせたり、ともかく僕の印象としてはデタラメだとしか言えない。

・・・という話を書き上げた日の夕方に、外出しようとすると『科学哲学』が届いていて、小山さんが編集した、分析哲学と科学哲学の歴史的な論説を読むことになった。もちろん笠木さんがこういう発表をされていたことは知っていたので、こういう特集が遅かれ早かれ登場するのは分かっていたから、あらためてこういう成果が出てくることを歓迎したい。もちろん、元ドクターのおっさんが個人サイトで管を巻いているよりも、プロパーが堅実に業績を上げる方が世界史的な観点から言って有意義なのは当たり前である。

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