2019年03月12日 に初出の投稿

Last modified: 2019-03-12 16:25:14

さきほど MarkupDancing の Notes で書いた学陽書房さんだが、アマゾンで発行物を見ていると『哲学』(女子学生講座、1972)という本がある。さすがに叢書の名称が良くなかったのか、1991年には「現代大学双書」という名前に変わっている。出版社のサイトで確認すると「抽象的な議論を直感的なイメージとして描ける」という紹介文があるのだが、既に当サイトでは何度か書いているように、僕はこういうのは信用していない。直感的に議論できることなら最初からそうすればいいのであって、直感的で分かりやすい平面でしか理解できない人は、要するにそこから上がっていくモチベーションが失われやすいので、いつまでたっても原理原則の議論や抽象的な議論ができず、その日の晩御飯に焼きめしを食べるかカレーを食べるかというレベルのことしか考えたり話せなくなる。その成れの果てが、Twitter や Yahoo! の知恵袋などに山ほどいる連中だ。そして、そういう好き嫌いを議論するにあたって誰かが食事の用意をしてくれているという、ただの好き嫌いの話においてすら考慮すべき論点がいくつもあるのだということにも気づかないのである。

簡単に言えば、身体障碍者向けに点字に置き換えるといった事情を除いて、学術研究者は学問に対する内容つまりは要求するべき能力でのハードルを下げてはいけない。僕のように記憶力が低い人間のために何か特別なことはする必要はなく、僕のような人間は、東大生なら1度読めばいいものを5回ほど読めばいいのだ。学術研究というものは、どんどん難しくなったり高度になるのが当然であり、後からくる人間の超えるべきハードルを下げてしまっては、知識や学問の進展に何の貢献もできない「洋書読み」や「徹夜実験バカ」や「科研費申請書類オタク」を増産するだけになる。

もちろん、そうやってハードルが下がっていたからこそ、僕のような者が国公立大学の博士課程にまで進めたのかもしれない。それは確かだが、だからと言って同じ程度の凡庸な人間が、これからも軽々と博士課程にまで進んでよいわけがない。高等教育機関が学生を受け入れて、しかるべき成果を出した者に学位を認定するのは、単に《学位をもっている人》を数字として増やすためではない。そんなことは文科省の官僚だけが実績作りに喜んでいればいいことであって、学術研究者は(もちろん大学や研究コミュニティでの保身だけのために、いたずらにコミュニティを閉鎖的にしたりハードルを上げるのは馬鹿げているが)、学術活動なり研究コミュニティのマネジメントという観点から必要十分な人数を確保できるようにすればよい。

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