2019年02月19日 に初出の投稿

Last modified: 2019-02-19 10:31:39

「思想」という言葉について、何度か話題として取り上げたことはあるが、そもそも思想というものを気にしなくてはいけないように思える動機とか、思想を色々な脈絡で取り上げている議論とか、それらの是非についてどういう基準を採用するのが望ましいのかとか、そういう話はさほど他の研究者からも聞かない。というか、なぜかは知らないが「思想」というものは、そういうスタンダードなアカデミズムの議論にそぐわない、いわば酒席の話題であるかのように扱われたりしがちだ。あるいは文芸作家や建築家が暇つぶしに出版する読み物のテーマにこそふさわしい、「素人哲学の別名」であるかのように扱われたりする。あるいは、筑摩書房や岩波書店から著作集を刊行してもらうような「知の巨人」しかもっていないような、壮大なお化けみたいなものだと思い込んでいる馬鹿も(或る分野ではプロパーにすら)多い。

たとえば、僕が見てきた限りにおいては、思想の何たるかが事実の問題なのか、あるいは理屈の問題なのかという単純な論点すら、解決どころか殆どの著者が考察しようとしない。かつて呉智英さんという封建主義を奉ずる評論家が、岩波新書の『思想とは何か』(古在由重)を手に取ってみたら、思想とは何であるかについて全く論じられておらず呆れたと書いていたが、それもそのはずだ。もとより古在由重さんといったプロパーとしても全く実績がない、左翼人脈でものを書いていたにすぎない岩波文化人に思想を厳密かつ明快に議論する才能などあるはずもないし、古来、日本の自称(その殆どは左翼や右翼の政治的なイデオローグにすぎない)思想家とか哲学プロパー、あるいは「しかじか思想」を専門分野として標榜する殆どの大学教員やアマチュアが思想というものについて、それが概念なのか観念なのかすら明快に議論してみせた試しなどないのである。こう言っては気の毒かもしれないが、たとえばトマス・ネイグルの訳書で訳者あとがきに哲学と思想の区別を述べた永井さんですら、結局はそういう場所で永井哲学の奥深さを垣間見せるといった「いっちょかみ」にとどまる、(こう評されるのは不本意だとは思うが)自意識プレイしかできなかった。

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