2019年02月06日 に初出の投稿

Last modified: 2019-02-06 13:06:40

幾つかの著作なり事案を目にしていると誰でも思いつくアイデアではあろうが、しかし厳密かつ詳細で straightforward に実行した事例が少ない研究プログラムとして、「差別の哲学、差別の思想」というものがある。一口に「差別の哲学」だの「差別の思想」だのと言っても、そこには「差別しないための」見識だとか「差別される側の」考え方や受け止め方というテーマだけではなく、「差別する者の」思想なり哲学があるかどうかも問わなくてはいけない(もし、そういう可能性がなく、単に差別とはアホや無知無教養な人々の陥る妄想によるものだと判明するなら、差別する側の論理を問う必要などなかろう。それは教育やリテラシーや精神医学や家庭のしつけの問題にすぎず、哲学として論じるべき課題でもなんでもないということになるからだ)。そして、これらはどういう「立場」のものであるかによらず、条件によっては他の立場へと置き換わる可能性があると考えておいた方がいいのだろう。なんとなれば、或る条件で差別されている人々が、別の条件ではさらに他の人々を差別する側になるという可能性があるからだ。いや、いまでも日本人は多くの白人から差別されており、その日本人どうしでも差別する側とされる側があるのは事実なのだから、「可能性」などと気楽に書き記すのは自己欺瞞と言うべきだ。

こういうテーマについては、もちろん既存の知見なり成果として民俗学や社会学や歴史学や社会心理学、あるいは文学に学ぶべきことが多いのは当然である。僕が支持する「哲学に科学を適用し、科学に哲学を適用する」という方針を採用した研究を進めるにあたっては(念のため注釈しておくが、この「哲学」や「科学」が他の学問に入れ替わっても全く問題はない。「社会学に経済学を適用する」とか「量子力学に民俗学を適用する」というアプローチもあってよい。しかし、これは社会学に量子力学を「応用する」などという研究のことではないのだ)、もちろん出発するのがどちらであるかという論点は些末であって、どちらから始めようと適正にフィードバックする手順なり見通しさえもっていれば、『橋のない川』を読むことから始めようと、『被差別部落一千年史』を読むことから始めようと、あるいは在日朝鮮人や右翼の同級生に話を聞くことから始めようと、そんなことは好きにすればよいのである。どこから始めたかによって、後の研究成果にまで大きな影響が残るのであれば、それは別の人が同じ研究をするときに参考となるように記録して残しておけばよく、別の人たちが先にコミットした人々の成果を肯定的であれ否定的であれ乗り越えていけばよい。多くの研究者、とりわけ哲学のプロパーに顕著な知的欺瞞として、「初めの第一歩」を極端に怖がり、過ちを書き記すことを一生の恥と恐れる傾向があるが、しょせんノベール賞を授かろうと無限の知性や能力をもつ生物など存在しないのであって、何も始めず残さずに独りよがりな思索や放埓な読書で一生を終える方が欺瞞的というものであろう。

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