Scribble at 2019-02-01 12:54:14 Last modified: 2019-02-01 13:04:01
僕は死について、ひとまずは粗雑な論説を掲載しているが、死についてしばしば問われる「なぜ生きるのか」という問いはナンセンスだと思っている。しかるに、どうせ死ぬのに生きるのは何故かとか、そのうち死ぬから好きなことをすればいいとか、(僕からすれば)軽口をばらまいている通俗本を書店で見かけることもあるが、手に取る必要を全く感じない。
人は、何らかの意思や自意識で生きているわけではないし、そのようなことで存在しているわけでもない。我々が生きているということは、おおよそ大森さんや永井さんらのアイデアと同じように、観念であり所与である。そういう観念として考えたり想定されているという事実は、それに対応する何らかの客観的で物理的な状態が事実として「ある」ということを含意するものではない。もう少し戯画化して言うなら、「なぜ生きるのか」という問いは、地球から100光年くらい離れた任意の天体にある1個の分子に「なぜ存在しているのか」と尋ねるようなものである。(もちろん、「相手」が生き物ではないという点を反論の材料にするのは、それを僕が敢えて状況設定に選んでいるのだから、文句なしに愚かである。)
寧ろ、既にわれわれ自身が生を受け存在しているという冷酷で否定しようがない観念(仮に僕ら自身の自意識が水槽の中で起きている化学反応だとしても、そういう反応が起きているという事実を否定することはできない)、つまりそういう観念が事実として起きているという概念なのだと理解するほかはないという観念しか、われわれには拠り所がないということを弁えることが重要だと思う。まじめに哲学へ取り組んでいる者であれば、この手のたちどころに循環へ陥る(これが「循環」であるという理解については?)思考についてどう取り組むかが、その人の思想なり哲学としての基礎をつくるのだろうと思う。もちろん、場合によっては取り組まないという選択肢もあろう。