Scribble at 2019-01-30 16:34:50 Last modified: 2019-01-30 16:44:01

仏教の通俗本に書いてあることが多いのだけれど、仏教では哲学のように論争しないから哲学よりも高度であるとかいった議論は、恐らく後世の人々が考え付いたプロパガンダだと思う。論争するしないということを、何かよりも高級な態度であることの正当化に使うなどという発想は、恐らく釈迦牟尼にはなかっただろうと思うからだ。そんなつまらないマウンティングを言うために悟りに至ったのだとすれば、悟りなんて麻原なにがしが言ったことと変わらないただの錯覚か、修行なり空腹による錯乱の結果であろう。

こういう、くだらない比較とか序列を宗教や哲学や思想に持ち込む人々というのは、それこそ昔から多い。そして、そういう世俗的な発想は、もちろん哲学にも見受けられる。自宅に置いてある、渡邊二郎さんが書いた『構造と解釈』という本の帯には「どちらがすぐれた哲学思想か?」というフレーズがあって、これは筑摩書房の編集者が作ったフレーズだと思いたいが、しょせんは許可した渡邊さんにも、いやしくも哲学(研究)者を名乗っているなら責任があろう。そもそも「哲学思想」などという奇怪な造語は何を意味するのか。"philosophical thought" などと訳してみたところで、こんな表現が正確に言って "philosophy" や "thought" と何の点で違うのか、どうやって説明するのだろう。

おまけに、いま思い出すだけでも渡邊さんなり藤澤さんなり竹尾先生なり、通俗本において或る方は構造主義を劣った哲学だと難詰し、或る方は分析哲学なり科学哲学を「科学主義」とこき下ろし、そして或る方は現象学で採用されている発想を「ノエシス光線」とおちょくる。はっきり言って、こういう党派的なレトリックを読んで留飲を下げる馬鹿や洋書読みが東大や京大や東北大にどれほどいようと、日本の哲学プロパーなど人類の知恵や知識を 1mm ていど前進させることすらできまい。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook