2019年01月24日 に初出の投稿

Last modified: 2019-01-24 22:11:36

簡単に言って、既に何世紀も前から「物知り」という通俗的な哲学者の自己イメージは妥当でないばかりか、いわゆる Dunning-Kruger の典型としてあざ笑われるネタにしかすぎない。せいぜい一般人が「東大生」とかに抱いているイメージと似たような値打ちしかないだろう。それを「碩学」とか「博覧強記」とか古臭い言葉で、何か僅かでも正当化しうるクオリアを保存できないものかと必死に言い改めようと同じことである。

同様に、ポストモダニズムの真面目な(いたずらに挑発的な場合もある)著作によって、哲学的な観点に対して求められたり自認されてきた「俯瞰」とか「超然」という特性も、たいていは思い込みであることが指摘されてきたし、フーコーやデリダやクワインやローティらのメッセージは、そんな特権的な観点などなくてもいいのだということでもあったろう。特に、科学に哲学を当てはめ、哲学に科学を当てはめるというクワインの指向は(その最もよく知られた実例は、恐らくデネットの業績だろう)、誤解されがちな「ホーリズム」という言葉よりも彼の主張を的確に言い表しているように思う。

いずれにせよ、僕にはどう考えても傲慢で下らない自己イメージとしか思えないアイデアを哲学についてプロパーが自認したり、いたずらに自分たちの責務の根拠だと誤解する発想は、どういう思想や学問であれ、しょせんはヒトがやっていることにすぎないという一点を真面目に理解するだけで消し飛ぶようなものだと思う。どれほど厳密で明晰な理解や論証があろうと、ヒトの業績は宇宙で生じる僅かな出来事によって簡単に消失するのである。

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