2018年12月22日 に初出の投稿

Last modified: 2018-12-22 13:15:51

ここ数ヶ月は、母親が亡くなってから改めて習俗としても価値観や思想としても多くは理解していなかった、当家の(というか別に親族の誰も正式な信徒になった自覚はないと思うが)宗旨や宗派について調べたり、関連する本を読んでいる。もちろん昔から、それこそ法学部時代はイスラーム法学の本を齧ったり、最近でも『やちまた』という本に関連して神道の本を読んだりしていたし、あるいは西洋哲学を理解するための素養として丁寧に聖書を読んだりしていたのだが、こと自分の親族が関わっていて、実際に誰かが亡くなると当たり前のように進められる儀式の根拠として持ち出される特定の仏教の宗旨や宗派については、殆ど何も知らないことを知った。

だが、いま述べただけでも仏教のことを書いているのは読んでいて分かると思うが、そもそもプライバシーでもあるから、当サイトや MD で宗派を明らかにしたりはしない。また、今後も MD や当サイトで仏教だけではなく特定の宗教について論説を書くつもりもない。もちろん、何が宗教なのかは正確には理解していないし、自分なりの定義も無く、ましてや哲学と宗教が違うのかどうか、違うならどこが違うのかも知らないが、それらを思想と呼ばれるものも含めてテーマにする可能性はあるし、僕も昔からテーマとして興味がある。かつてネイグルの訳本の訳者解説で、永井均さんは哲学と思想の区別について、ご自身なりの(僕とはぜんぜん違うが)区別を説かれている。ああした、今で言えば応用哲学の部類に入るテーマは、もちろん学生時代の話題として僕らも友人と高校時代に話していたものだが(そして、こんなことは何かの自意識プレイでもなんでもなく、少なくとも院卒ていどの人間なら誰でも考え話すことなのだ)、いまだに難しい話題だ。確かに、その難しさとは、もしかすると哲学や思想や宗教それぞれにとっては、どこまでどう考察しようとも無益で無駄な難しさでしかないという可能性はある。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook