2018年12月21日 に初出の投稿

Last modified: 2018-12-21 23:00:39

喩え話をセットアップするのは慎重な準備を必要とする。よって、そのような準備を十分にしているとは思えない喩え話を、安易に通俗書で引きずり回しているような手合いの文章は、結局のところ自分が作り上げた喩え話のセットアップ自体に当人の思考が引きずり回されることになり、まさしく「尻尾が犬を振り回す」ようなことになるのだ。哲学の古典に関する学部レベルの薀蓄を積み上げただけの者が通俗本を書くと、要するにそうなる。

では、まじめに thanatophobia の論説に加えるかどうかは保留したいが、一つの喩え話を提案してみる。最初に述べたとおり、議論の役に立つ喩え話とするためにはセットアップを適切に準備しておかなくてはいけないのだが、最初に簡単な問いかけとして喩え話の状況を与えておこう。

「真っ暗で狭い部屋に閉じ込められる代わりに不老不死のままいられるがどうするかと言われて、あなたは応じるか?」

このような状況を示された場合に、多くの人は閉じ込められ続けることに耐えられるかどうかを想像するだろう。外界との物理的な相互関係が全く無いので、そこが何なのかはわからない。一定の広さがあって真っ暗であるということだけだ。生き続けられているのだから、空気はある。しかしなぜか空腹にもならないし眠くもならないのだから、自分の体に何か特殊なことが起きているという予想もできるだろう。閉じ込められた当初なら、幾つかの推論をする意欲はあると思う。果たして本当に不老不死なのか。外界と遮断されているが、もし単に閉じ込められているにすぎないなら、この外で起きた事象でやはり死ぬのではないかと疑える。そのほか、自分が関心をもっていることなら何でも沈思黙考する(あるいは、大声で叫びながら考えてもいいとは思うが)時間はいくらでもある。しかし、それをいくら続けても、或る意味ではどうにもならない。どういう答えが出ても実行などできまい。仮に、考えた末に「これでは、死んでいる状況と大して変わらないではないか!」と大声をあげて自殺しようにも、不老不死であってみれば死ねない。すると、遅かれ早かれ精神に失調をきたすしかないのだろうか。でも、その先はどうなるのか。異常をきたしたとしても不老不死のままであれば、異常のまま永遠に生存してなんになるのだろうか。そもそも、その取り引きを持ちかけた「存在」にとって、その結果に何の意味があるのだろう。何かの実験でもしているのか。

さて、ここで小休憩してみよう。ここで「存在」と初めて表記したのだが、「真っ暗で狭い部屋に閉じ込められる代わりに不老不死のままいられるがどうするか」と言われたときに、その当の提案者たる「存在」とは何なのか。それこそが何かの比喩なのか。また、セットアップでは真っ暗で狭い部屋としているが、その必要はどこにあったのか。もちろん、何も見えず自由に移動できもしないという状況に置くと、人は精神に異常をきたしやすいと考えたからだ。しかし、もしそれが視覚障害者の生きている状況を愚弄するような含意をもつ思い込みであれば、このようなセットアップには何らかの変更が必要だろう。狭いという条件についても、これが神経系の疾患で寝たきりになっている人への重大な偏見を助長するような含意をもつ想定であり、実際には狭くても十分に豊かな生活ができるなら、条件としてセットアップに組み込んだことは不当だろう。

すると、これらの点を再検証するだけでも、議論のために想定される結果(これでは不老不死になっても「本当に生きている」と言えるのかと思いたくなること)を導きやすくするには、もっとセットアップにおける条件を慎重に組み立てる必要があるかもしれないと分かる。実際に条件を変えるかどうかはともかくとして、こういう検証は、どういう喩え話を議論へ持ち込むにしても学術活動においては必ず求められるべき手順だと思う。

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