2018年10月25日 に初出の投稿

Last modified: 2018-10-26 19:56:17

今月の初旬に母親が亡くなってから、葬儀やら後始末やら、あるいは残された父親のサポートをどうやって続けていくかを考えたりしているうちに3週間が過ぎた。昨年から自分自身の死にまつわる論考を書き繋いできて、つい数週間前までは言葉を交わしていた肉親がいなくなると、改めて違う脈絡からも考えさせられる。

たとえば、ここ二週間ほどは当家の宗派を調べなおしたり、作法について調べていた。そして、そのような作法の元になっている考え方として、宗祖とされる人物たちの評伝を読んだり、重んじられている著作物や経典の解説を読んできた。しかし、母親が日増しに弱っていって会話もできなくなっていった様子を数ヶ月にわたって眺めてきた経験だとか、母親が亡くなった当日に病院へ真っ先に駆けつけたときの当人の姿を思い返すと、成仏だの救われただのと言われても一向に信じられない。死ねばみな救われるというなら、母親が被った最後の数週間にわたる苦痛はなんだったのかと問わずにはいられない。もちろん、それを仏などという観念に問うたところで、返ってくる答は僕たち自身の独り言でしかないが、恐らくこれを科学として探求することは筋違いであろう。なぜなら、われわれの思考が脳のパルスの相互作用によって成立していることは言うまでもないが、われわれはそうした相互作用という物理現象を見せられて納得するわけではないからだ。

[UPDATE:2018-10-26]

ただし、そういうパルスを僕自身の脳に伝達することで「納得」と呼ばれる現象を引き起こす可能性を排除したいわけではない。しょせんヒトなどという瑣末な生物種の自意識や知能なんて、そこから生まれた科学の成果によっていくらでもコントロールできてしまう可能性だってあろう。もちろん僕らは、それがどうしてなのかを問える。しかし、そこで何らかのパルスとして納得させてくれる「理論」は、恐らく(少なくともまだ)人類は手にしていない。

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