Scribble at 2018-10-24 21:56:02 Last modified: unmodified

しばしば、厭世的な気分になったり、人が生きる意味を問うことこそしかじかといった安っぽい観念で気分を取り直したりと、なかなか自分の心持ちを自身で制御するのは難しいものである。僕は自ら命を絶つ気はないし、thanatophobia について考えているくらいなので、恐らくは自分自身の生存なり、自分が生存している世界や宇宙、あるいはそれらがそもそも「有る」ということに、何ほどか依存したり甘えている現状を、実存などと大げさなことを言わなくても受け入れている筈である。あるいは何かを期待しているのかもしれないが、それは儚いものだという自覚もある。

僕が、とりわけ MD で、人は有限の能力しかないという意味では凡庸で矮小な存在だという意味で「凡人」という言葉を使うとき、確かに個々のヒトについては、それがノベール賞を受けながら夭折したハーヴァード大学の教授であろうと、イタリアの片田舎に住むタバコ屋の婆さんだろうと、僕が言う「凡人」という意味では殆ど同じである。どちらにせよ、100m を5秒で走ることはできないし、1万年どころか100年すら生きられたかどうかも分からない生物個体である。しかし、或る点に着目すれば、比較の上では両者に何ほどかの違いがあるだろう。大学教授は一定の業績を上げただろうし、婆さんは大学教授より何十年も長生きしただろう。そして、人類全体の成果と比べても個々の人物の業績など比較にならない。したがって、僕が言いたいのは、大学教員もアマチュアも大差ないといった、在野の自称研究者が大好きなルサンチマン全開の相対主義でもなければ、個人の業績を過小評価したり過大評価する愚かなジャーナリズムのたわごとでもない。単純に妥当な基準によって予断なく是々非々の評価をして、物事を受け入れたり拒絶するための戒めと言うべきものだ。

そして、一定の評価に基づいて特定のアプローチや見解を他よりも優先させることこそ、僕が「擬制」と呼ぶものであり、このような観念は全ての人が凡庸であるという考え方と矛盾するわけではない。theory と theorist を混同するのは、単なるカテゴリーミステイクだ。

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