2018年10月13日 に初出の投稿

Last modified: 2018-10-15 07:03:33

哲学はもとより学問あるいは知的活動は、およそプライベートな営みである。誰かに特定の思考や思想を強制されたり、何かの情動に駆られてやらざるを得ずにやるというわけでもない、全く自発的な活動だ。誰であろうと特定の分野とか特定のトピックについてものを考えなくてはいけないという義務を負っているわけではない。それゆえ、哲学を専攻しているからといって誰もが真理や正義について考えたり学ばなくてはいけないというわけでもないし、それどころか教科書的なレベルの素養を身に着けておく必要すらないと言える。実際、大学の哲学教員を掴まえて、タルスキによる真理の定義とドゥオーキンによる正義論とを〈そらで〉説明してみせよと問いかけたとして、前者を橋本康二さん、後者を森村進さんと同じくらいの的確かつ包括的な仕方で二つとも応じられるプロパーなど、国内に五本の指で数えられるていどしかいないだろう(というか、分析哲学と法哲学の両方を一通り学んだことはある僕ですら、具体的にそんな人がいるのかどうかすら怪しいと思うが)。

だからといって、彼らをして哲学を学ぶ資格どころか哲学する資格がないなどと言うのは馬鹿げている(もちろん、そういう人々に哲学を「講じる」資格があるかどうかは疑ってよいが<笑)。哲学するにあたって、そのような特定の素養を要求するのは、単なる小文字の政治でしかない。哲学するということを記号論理学の応用だとしか考えない人間なら、学部生にシェーンフィールドの読破を要求するだろうし、哲学するということを単純な子供のような問いを発し続けることだと誤解している人間なら、何の勉強もしないで哲学ができると思い込むかもしれないが、それらはしょせん特定の学派を理想化していることに気づかないおろかなアプローチだし、端的に言って「自意識」で哲学のように見えるだけの何かをやっているだけのことだ。当サイトのページで既に述べたように、そのような無自覚な自意識の補完や保護や美化を目的とするだけの営みを「哲学」と呼ぶのは単なる錯覚であり、しかも精神疾患ではないからこそ、そういう錯覚をしたまま哲学の教員となるような者もいるわけで(表面的には、そういう錯覚をしていようと国公立大学の博士号くらい取得できる)、悪質な結果を他人にもたらしうる。

しかし、哲学がプライベートな営みであるからといって、その成果なり結果が自らの思考や判断や行動に何の影響も及ぼさないなどということはないだろう。以前には、正義とは A なりと信じていた者が、何らかの思考や勉学によっても正義とは A なりと信じているままだからといっても、そうした思考や勉学を経たからには「やはり A なり」と強く信ずるようになっているのだから、それまでとは思考や判断や行動に、確信を伴うとか躊躇がなくなるといった、何らかの変化があるだろうと推定できる。いわんや思考や勉学によって A が B へと変わったのであれば、何らかの影響で判断や行動に変化が生じるのは当然であろう。もし、思考や勉学によって A が A のままであるどころか A が B に変わっても、他人や物事への対処の仕方どころか内面での変化すら起きないなら、そこで行った思考や勉学とはまさしく表面的で口先だけのものということになろう。認知科学的には、「自衛隊は違憲だ」と思っていた人間が憲法を勉強して「自衛隊は合憲だ」と形式的に口走るようになったとしても、実際には自衛隊が違憲だと信じている人と同じ投票行動をとりうるというモデルを作ることはできるだろう。なぜなら、何かを信じているからといって、そこから演繹できるあらゆる判断のとおりに行動できる人間など、実際には殆どいないからだ。「殺生は悪」であると言ったところで、そう口にしている場所で足元にはアリや微生物の踏みつけられた死骸が横たわっているかもしれないのだ。あるいは、われわれは何を言ったところで、体内で活動している免疫細胞が癌化した細胞やウイルスを「殺戮」することを自律的にとどめることなどできはしない。

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