Scribble at 2018-10-03 13:52:21 Last modified: 2018-10-28 09:26:20
学界の一員としてのプロパガンダ、あるいは出版社に対するカジュアルなリップサービスなんだろうけど、僕らからすれば全く馬鹿げている。翻訳書が出版されるというのは、学界の動向のいわば「遅延指標」なのである。全集に収められたマイナーな文献すら翻訳が出版されるというのは、それだけ出版社に一定の許容度があり、そして研究者も翻訳できるだけの蓄積があるということだ。そもそも、学界のことだけを考えたら、デカルト研究のプロパーには訳本など不要のはずである。フランス語やラテン語が読めなくてデカルト研究をやっている人間なんていない。したがって、翻訳が出たからといってデカルト研究の風景なり研究の出発点が大きく変わるなどということはありえず、その逆である。
しかし、もちろんこれはこれで「良い」ことではある。翻訳が全くないよりはいいし、複数の翻訳があればもっといいとは言えるし、安価な訳書も増えたら学生の時点で古典に触れる人も多くなるだろう。何度か言っているように、ショーペンハウアーやライプニッツの研究者が増えないのは、たとえばショーペンハウアーについては岩波文庫などに些末なエッセイしか収録されておらず、ライプニッツについても幾つかの古い翻訳を除けば高額な著作集しかなく、こんなものを哲学の概論で興味をもったくらいの学生が何千円も出して買うわけがないし、巨大な本を図書館で借りて持ち歩くわけもない。学生や初心者には、「プロダクト」というマーケティングの観点を導入することも大切であり、それは何も哲学の通俗書の表紙にスカートの短い女子高生か幼女の絵柄を描けばいいということとは違うのだ。