2018年10月03日 に初出の投稿

Last modified: 2018-10-28 09:26:20

二〇一二年に知泉書館から刊行がはじまった『デカルト全書簡集』全八巻が昨年完結し、この三月末には、法政大学出版局から『デカルト医学論集』が刊行されました。さらに、法政大学出版局からは『デカルト 数学・自然学論集』が、知泉書館からは『ユトレヒト紛争書簡集』も間もなく刊行されることになっています。これでデカルトの基本的な全集とされる「アダン・タヌリ版全集」全十一巻に収録された、ほとんどすべての文書が日本語で読めることになります。特に『全書簡集』刊行以前は、「アダン・タヌリ版全集」の三、四割ぐらいしか邦訳されていませんでした。このことを考えると、『医学論集』のあとがきにちょっと書きましたけれども、日本におけるデカルト研究の風景、研究の出発点が、大きく変わることになるだろうと思います。

デカルト研究の現在/未来

学界の一員としてのプロパガンダ、あるいは出版社に対するカジュアルなリップサービスなんだろうけど、僕らからすれば全く馬鹿げている。翻訳書が出版されるというのは、学界の動向のいわば「遅延指標」なのである。全集に収められたマイナーな文献すら翻訳が出版されるというのは、それだけ出版社に一定の許容度があり、そして研究者も翻訳できるだけの蓄積があるということだ。そもそも、学界のことだけを考えたら、デカルト研究のプロパーには訳本など不要のはずである。フランス語やラテン語が読めなくてデカルト研究をやっている人間なんていない。したがって、翻訳が出たからといってデカルト研究の風景なり研究の出発点が大きく変わるなどということはありえず、その逆である。

しかし、もちろんこれはこれで「良い」ことではある。翻訳が全くないよりはいいし、複数の翻訳があればもっといいとは言えるし、安価な訳書も増えたら学生の時点で古典に触れる人も多くなるだろう。何度か言っているように、ショーペンハウアーやライプニッツの研究者が増えないのは、たとえばショーペンハウアーについては岩波文庫などに些末なエッセイしか収録されておらず、ライプニッツについても幾つかの古い翻訳を除けば高額な著作集しかなく、こんなものを哲学の概論で興味をもったくらいの学生が何千円も出して買うわけがないし、巨大な本を図書館で借りて持ち歩くわけもない。学生や初心者には、「プロダクト」というマーケティングの観点を導入することも大切であり、それは何も哲学の通俗書の表紙にスカートの短い女子高生か幼女の絵柄を描けばいいということとは違うのだ。

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