2018年09月18日 に初出の投稿

Last modified: 2018-09-18 11:10:39

「勉強はちゃんとやりましょう!僕も勉強ちゃんとやります!」という服部裕幸さんの『言語哲学入門』を手に入れたので(笑)、今週の連休にでも目を通しておきたい。特に、「第4章 固有名の問題」を丁寧に読んでおきたいという目的がある。どうも昔から「言語分析的」なアプローチというのには違和感があって、この固有名にしても、そもそも社会制度や人間関係を抜きにして固有名などというものは成立しないし必要でもないのだから、哲学として取り組む理由が分からないのである。だいいち、一般名による指示であろうと、指示論としての困難は固有名と同じであろう。なんとなれば、一般名としての「同じ」とか「違う」という基準の議論が、およそ哲学として固有名と対象の指示関係よりも「簡単」であるわけがないからだ。

ヒトがいなければ成立しないことを基準にしている哲学的な思索というものは、それが社会的・歴史的な制約の中にあるという明白な自覚無しには、まともな成果が上げられないと思う。もちろん、哲学的な思索の暫定的な「出口」の一つは個人的、社会的、歴史的な制約のもとでの結論かもしれない。それはたとえば「人はどう生きるべきか」といった議論の暫定的な結論でもあろう。しかし、それはあくまでも我々自身が有限な個体であり、社会的・歴史的な存在でしかありえないという制約のもとで帰結する他はないという事情によるのであって、そういう制約を可能な限り減じた条件のもとで思索しうるという擬制を出発点にできないというのであれば、われわれは原理的に不可能なことをやろうとしていることになる。それこそ、認知的クロージャどころの話ではなく、哲学とは究極的には自分のやっていることが矛盾だと気付く道程のことだという話になろう。僕は、そこまで(ポストモダニズム的な人々は簡単に口にしそうな話だが)このようなシニシズムにコミットするつもりはない。

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