2018年07月23日 に初出の投稿

Last modified: 2018-07-23 16:18:25

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著者である泉井久之助さんの生誕100年を記念して白水社から限定復刊された『ラテン広文典』を、たまたま書店で見かけて手に入れていた。ラテン語の原書は全く持っていない(デカルトの『精神指導の規則』を関大の図書館でコピーしていたくらいだった)のだが、いわゆる EFGILS を習得するといった哲学の基本的な訓練を受けていなかったことに幾らかの心残りはあったため、機会を見つけて幾つかの言語は学びたいと思っていたのであった。もちろん、どれだけ外国語ができても大多数の哲学教員は哲学史の概論(しかも海外の)を書き換えるほどのインパクトを残すような成果は上げられないだろうし、どれだけ哲学史の薀蓄を積み上げても彼らの大多数は単なる成金のスノッブや物知り小僧、あるいは哲人のプライベートに詳しいだけの事情通や思想オタクといったていどのものでしかあるまい。しかし、だからといって外国語の習得をバカにしたり、他人の業績、なかんずく古典的とされる海外の先人の業績を、外国語の習得なしには読めないからというだけで軽視するのは愚かなことだ。無能であればもちろん、仮に哲学的な才能がある人でも、進んで数多くの他人の成果に学ぶべきだろう。そして、その必要がないと判断して独自の思考を押し進めるべき状況にコミットできるときになって、始めて古典や最新流行の論文を追いかけるような真似をやめたらいいのである。

したがって、凡庸きわまりない者の一人に他ならぬ僕が外国語の習得や古典の研究を軽視する理由などないのであって、可能であればいつからでもやった方がいい。僕は今年で50歳になるが、いまから何かを学び始めても、その辺にいる哲学の院生ていどなら遥かに凌駕する実績くらい幾らでも出せる(などと息巻いている「凡人」に、こんなことを言われて悔しければ、自分たちが実績を出すことだ。学者あるいは学問に携わる学生は、クソみたいな通俗書を書いたり読んだり、あるいは何とかカフェで自己満足のケアに暇を潰している余裕などない筈なのだ)。

さて、そういうわけでせっかくだからと本書を紐解いてみたのだが、確かにアマゾンのレビューで低い点を付けている人が指摘しているように、これは殆どコレクター向けの本だと言わざるを得ない。

まず文法学や言語学の進展によって改めたり補うべき点があると思われるのはもちろんだが、研究者として体系的に何かを習得したり考えているからといって、それを正しく適切に文書として構成したり編集したり表現できるとは限らない。また、同じことは商業出版のプロダクトであるからには、編集者や製版デザイナーたちにも言える。言語のテキストを書いたり編集するにあたって、どのような注意点があったり工夫ができるのかを、それこそ本書が発売されて以降の半世紀以上に及ぶ時間を経て提供できる紙面の利点を措いてまで、そのまま復刊して発売するほどの価値があるのかと言えば、その情報や著者の見識については疑うべくもない名著だと思うが、内容の構成や紙面の設計については大いに疑わざるをえない。アマゾンのレビュアーと同じく、いったい誰のための本なのか不明だ。

たとえば、ラテン語についての歴史的な解説が冒頭に置かれて、その次に文字の発音が解説される。そして、いきなり文と単語の一覧が示されて、それらの単語表だけで文が理解できると言われる。なぜなら、それらの単語表は動詞にしても名詞にしても文の中に出てくるとおりに変化させた上で訳してあるからだ。そして、そのページから300ページくらいに至るまで、変化を中心に分類された事項の解説が続くのだが、名詞や形容詞や動詞の解説はそれぞれの変化において分けて説明されるので、まずラテン語の動詞とはどういうものなのかを掴むのに全体を通読せざるをえないか、点在する解説を調べながら読むという面倒臭いことを続けなくてはいけなくなる。いわゆる漸進的な学習方法というのは、いっとき赤ちゃんが言語を習得する方法と同じだと言って外国語の教科書に採用されたこともあったが、現代の知見では大人が外国語として習得する方法としては不適切であることが知られており、それゆえ英語の学習方法でも English as a second language (ESL) とか EFL という特別のアプローチが用意されているのだ。

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