2018年07月15日 に初出の投稿

Last modified: 2018-07-15 13:34:01

僕は科学哲学を専攻する哲学者を名乗っているからこそ、いわゆるホイッグ主義的で現世主義の scientism を含意するか、scientism と整合しうる余地をもつ「自然主義」なるものとは一線を画しておきたいと思っている。(しばしば YouTube などで科学者や科学哲学者を集めた「賢人会議」のような体裁の会議録やカンファレンスの討論会を見かける機会が多くなったのだが、あれはまるでシノドス(司教会議)や異端審問会議だ。いったいどちらがカルトなのか見分けがつかなくなってくる。)

通俗的な自然主義を科学哲学者として拒否するべき理由の一つは、我々は有史の始まりから少なくとも現時点に至る全ての最善の業績や成果を積み上げたとしても、この宇宙の真理の断片をかすった程度でしかないという可能性があるからだ。そしてこれから、有史の始まりから現代に至ったのと同じだけの時間が経過して、集合知だのシンギュラリティだのという二流の魔術が功を奏して学術研究に幾許かの効率化を実現できたとしても、我々がこの宇宙について知りうることはほんの僅かでしかないという可能性だってある。

それに加えて、そもそも我々がヒトという生物種なり個体として、この宇宙に関する法則とか特性の一端を理解するための理論を考え出せる知能や概念枠を獲得できる、つまりは生物としてもつ諸々の生化学的もしくは認知科学的な身体の能力や器官の実態が、宇宙の真理(に関する概念や定式化や議論)を認知するに足る要件を満たしているという保証など何もないのである。したがって、たとえば現在の科学の各分野における支配的な学説を満足しているということが、ただの科学者に対するリップサービスではなく、まじめに哲学者として主張するべきコミットメントであるなら、そこには思想として一定の留保条件が必要だ。そうでなければ、科学者だろうと哲学者だろうと大衆だろうと、無条件の自然主義というものは、自然主義の(僕には不可避だと思えるが)歴史的な制約や留保を隠した卑怯者の結果論でしかなくなる。それこそ、どれほど数式や論理式を散りばめてエレガントに印刷されていようと、毎月のように出版される「哲学」を騙った俗書の高級版でしかない。

すると無能なプロパーの多くは、いま述べたことと似たようなフレーズを単なるシニシズムとしか理解せずに、現実の自然科学について自分が勉強しないための言い訳に使いはじめる(昔なら「おフランス」とか「大陸系」などとレッテルで侮蔑していれば済んだのかもしれないが、いまや分析哲学どころか科学哲学においても似たような傾向は見られる)。しかし、一部の成果であるとは言え科学の成果を全く学びもせずに、独立して何かを思考したり議論できるというのは、全くのデタラメであって、しかもそのような態度は過去の多くの哲学者(プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、フッセル、ウィトゲンシュタインなどなど)たちの態度にも反する、ただの中二病だ。

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