2018年06月29日 に初出の投稿

Last modified: 2018-06-29 07:17:46

ただいま少しずつ『神は数学者か?』(マリオ・リヴィオ)を読んでいて、the applicability of mathematics をテーマにしたいと思っている。が、冒頭の哲学史のような話を読んでいて、違和感を覚える。それに、リヴィオが「数学の有効性」を積極的な意味と受動的な意味に分けるということには、後者に歴史的な観点を持ち込むことを伴うのだが、この区別は何か作為的で、僕にはあまり説得力がないし魅力的でもない。歴史を書こうとするには、そういう筋書きで問いを扱えばいいのかという「逆算」を見せられているようで、全く哲学的(というか学術的)な正当性が感じられない。

彼の本は黄金比を取り上げた作品にしても、テーマの設定は興味深いのだが、一般向けの本だという強い編集上の制約がかかるからか、どうしても理論的な観点よりも歴史的なストーリーを描くという観点が優先されてしまい、読み物として叙述を漫然と眺めるにはよくても、知的刺激というものに欠けているのが残念だ。したがって、たとえば僕が黄金比にまつわる美学や数学や認知科学の研究をリードする際に、彼の本は introductory な読み物として学生に推薦してもいいとは思うが、これで卒論を書くなどということは認められない。それでは中学の自由研究以下だ。『神は数学者か?』にしても、この本を読んでからウィグナーの論説やテグマークの野心的な著作に進むのは結構だと思うのだが、彼自身が結論としているように「数学は発明か、発見か」という問いの設定そのものに問題があるのだから、そこから先へ一歩も進まないのでは哲学になっていないのであり、科学哲学の副読本として扱うなら、本書の読書感想文ていどで卒論にするようなことでは、学生に哲学を教えたことにならないと言える。

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