Scribble at 2018-06-22 11:48:40 Last modified: 2018-06-22 11:52:08

Demarest asserts that we have good evidence for the existence and nature of an initial chance event for the universe. I claim that we have no such evidence and no knowledge of its supposed nature. Against relevant comparison classes her initial chance account is no better, and in some ways worse, than the alternatives.

"The Universe Never Had a Chance," C. D. McCoy, Philosophy of Science 86 (5) (forthcoming)

僕は、いちおう一時は "Ph.D candidate" を名乗っていた時期もあって、大学には研究計画書も出していた。そこでは、修士論文で取り上げた確率的因果関係の概念を更に厳密に理解するためという目的で、確率の概念を掘り下げるというテーマを加えていたのであった。簡単に言うと、確率とは何なのかという話であり、これは古典的解釈とか傾向性解釈といった定義の問題でもあるし、いわゆる「存在論的身分」というテーマでもあった。この宇宙のなりたちは本質的に確率という特性によるのか、それとも違う(「違う」からといって、即座に決定論的・必然的な特性だとは限らないのではないか)のかという話題でもある。もちろん、このようなテーマを哲学としての概念分析だけであれこれ論じているだけでは「不十分だ」というのが僕の科学哲学としての見識なので(異なる見識の方なら「無意味だ」と言うだろう)、やれカルナップだポパーだとやっているだけではいけないから、ラプラスだ、ジェフリーだと数学者の議論も丁寧に取り上げる必要がある。なので、上記のような議論を追いかける研究者がいることは内外を問わず嬉しいことだし、論説や著書があれば言及したり紹介してサポートはしたい。当サイトでも、通俗書を叩き潰したり死ぬ話だけをしていても読む方はウンザリさせられるだけだろうから(笑)、サイト名に恥じないていどの科学哲学の議論も公表したいとは思う。

統計や確率の哲学そのものは国内でもかなり前から成果は出てきていて、たとえば伊藤さんや一ノ瀬さんの著作や松王さんの翻訳は既によく知られているし、恐らく出口さんや大塚さんあたりも著書を出すのかもしれないが、統計学が色々な分野で出版物のテーマとして採用される機会が増えてきている割に、哲学としての成果は逆に最近は低調と言える状況になっている。そして僕が見ている限り、そもそも既存の成果についてすら、どれも数学的対象としての確率という概念についての解明が足りないように見受けるので、僕が期待するような確率の研究は日本では昔からさほど熱心に取り組まれているわけでもないと思う。もっとも、こんなことは各人の関心に応じて自分の関心を中心に据えたら誰でも言えることであり、結局のところ自分自身が成果を出さなければいけないということだ。

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