2018年06月21日 に初出の投稿

Last modified: 2018-06-21 11:35:32

認識論と存在論の循環という話題について掲載したメモは既に公開していないため、改めて少しでも展開し直しておこう。

まず、「正しい認識は実在の把握なくして不可能である」という立場と、「実在の把握は、正しい認識なくして不可能である」という立場のどちらを優先するかという問題が設定される。平たく言うと、或る事を間違って理解しないための正しい考え方を知るのが先なのか、それとも正しい考え方と言えるために基準となる物事の在り方を知るのが先なのかという話にもなるが、もちろんこれは記述的にも議論できるし、規範的にも議論できる。記述的に言えば、人の認知能力なくして「認識」という事態は成立しないと考えれば、この宇宙がそもそも在るという事実が先行しているに決まっている。ヒトどころか生命が発生して進化という仕組みが働かなければ、認識論も存在論もヘチマもないのであるから、事実問題としては世界が存在するということが先にあったのは当たり前である。そして更に、事実問題としての存在論が議論しているのはあくまでも「存在者」についてであって、そもそもどちらが先であろうと、存在論的な問い(そもそもヒトがいようといまいと、現今の宇宙がこう在るような仕方で存在していようといまいと、なぜそういうことそもそもがあり、そして現状では「こうあらねばならなかったのか」という問い)が両者に先行するということは繰り返して強調されなくてはならないだろう。

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