2018年06月11日 に初出の投稿

Last modified: 2018-06-12 10:27:46

自動化プログラミングの本質は「プログラマによるコーディングや設計」を不要として、仕様・要件の側からの入力に対して最適化された最速の実行コードという出力を返すことに尽きるからだ。そのようなステージにおいては、Python の方が「書きやすい」とか、Perl が「手に馴染む」などという、たかだか10本の指と一個の頭でプログラミングするしか能がないサルが持っている基準などクソでしかなくなる。そして更に、サルの中でもマシな個体が「たくさん目玉さえあれば」などと法則を語ったところで、サルの目玉が1億個あっても勝てないアルゴリズムが登場する時代もやってこよう。

2018年06月11日に初出の投稿

上記の点について、哲学の話題として補足したい。僕は、人類の存続に宇宙論的なスケールでの意味などないと思っている。滅亡しようがしまいが、そんなことは宇宙においては些末な「自然現象」なのである。しかし、だからといって当の人類あるいは当の個体である僕やみなさん自身にとっては些末ではない。だが、ヒトであれ犬であれ個体自身が自らの生存について自身にとっては些末ではないと感じたり思うことは、これまた認知という単なる自然現象でしかない。しかし、我々が自分自身を些末ではないと感じたり思うという認知が自然現象にすぎないのであっても、そういうものだと理解すること自体は僕ら自身の見識にかかっているのだから、人の生死を簡単には自然現象だと言うだけで割り切れるわけがないのは当然なのである。

話は逸れるが、僕が自然科学者の死生論の多くを欺瞞だと言っているのは、これが理由だ。多くの自然科学者は、人の死は細胞によって決められたことだとか、種の保存のために必要で自然なことだと言っては、「そういうスケールで見れば、死ぬことにも意味がある」と言う。しかし、これは自己欺瞞であり、上記で僕が解きほぐした複数の観点をわざと同一視して、(当サイトで公開している論説の用語を使うと)自然現象を眺める RPV と、その当人として認知する FPV とを問答無用で同じこととして扱ってしまうのである(なお、この区別は更に正確に言えば、「自然現象たる自分の認知内容を RPV として観察するという自然現象」と「自然現象たる自分の認知をそれとして把握したり感じるという自然現象」との対比であって、二元論など一つも示唆していない)。しかしそんなことが可能なら、そもそもダニエル・デネットが「ヘテロ現象学」などと面倒臭いパースペクティブを言い立てる必要などないし、それどころか「現象学」などという哲学のアプローチすら不要だっただろう。さらには、わざわざ自然科学者が通俗本を書いて「死にはどういう意味があるか」などと悩んで見せる必要など最初からなかった筈であろう。

ともあれ、僕は人類の科学と技術が旧来の成果を越えて人類のパフォーマンスをはるかに凌駕するような(AI に限った話ではないが)成果を生み出すことに期待はしているが、サルの目玉が1億個あっても勝てない自動化されたプログラミング・ツールが完成しようとしなかろうと人類の歴史は自然現象としては(恐らく暫くは)続くだろうと思う。僕は個人の期待なり予想としては、そういうプログラミング・ツールが実用化されて「プログラマ」と呼ばれる職業が無用になる可能性はあると思っている(だからこそ、言語の好みやテキストエディタの好みを論じることは、個人としては面白いが、哲学的な観点で言えばクソの投げつけ合いでしかないと思う)。そして、そういうことが達成されようとされるまいと、人類の存続それ自体には(人類自身の観点を伴わない限り)宇宙論的なスケールでは価値も意味もないという厳然たる事実を弁えることが必要なのである。

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