2018年04月02日 に初出の投稿

Last modified: 2018-04-02 10:31:46

時事の話題に限らず、自分たちが暮らしている地域や国においてどういう仕組みなり運用が望ましいのかという話を公で開示したり展開することは、学術研究に携わる者であれば当然・・・避けたいところだろう。イデオロギーを理由にして、本来の研究成果まで「非国民の量子力学」とか「ネトウヨ微分方程式」などと言われては困るのは確かだ。そうでなくても、研究内容そのものが他人の怒りを買う場合もあり、現に科学哲学においてもモーリッツ・シュリックがキチガイ学生に射殺されたこともあるし、イスラームの研究者は(欧米の)ナショナリストから、神学者は(中東の)ナショナリストから、あるいは中国や韓国で日本の研究をしている人や、日本で中国思想や韓国の儒教や在日外国人の歴史を研究する人は、それぞれの国のナショナリストから脅迫されていることなど珍しくもない。よって、STS やフェミニズムのアプローチからすれば、欧米の科学哲学が過度にイデオロギーや現実の制度・政策から距離を置きすぎていると思えるので、そういうアプローチを採用する人々から現今の多くの(特に「ハードな」科学哲学の)研究者が批判されるのも当然だ。もちろん、以前も書いたように、個人としての研究者が政治や政策について積極的に発言したり行動しないからといって、彼らが何も考えていないと言うことには無理がある。もちろん、積極的な発言や行動を伴わなければ「考えていないと断罪されても甘んじて受け入れるべし」という deliverately な極論をふっかけて挑発するつもりならともかく、リテラルにそういうことを言っているなら、それは単なる「計測機器のオペレータ」みたいなものであって学者ではない。

とは言え、やはりなんらかの見識を示す必要はあるだろう。もちろん、クソ田舎の高速道路がどうのこうのと通俗書を書いたり、「自称教授」と周回遅れの左翼運動をするのも暇つぶしとしてはいいかもしれないが、近代の思想史を語るていどの知性があれば、少しは哲学者として有効なことをしたいものだ。それは、恐らく Twitter で愚にもつかないコメントを書き続けることでもなければ、既存の「政治屋」と一緒に、保守だろうとリベラルだろうと、知性に劣る連中でも何らかの思想に殉じているかの思い込みを得るためにやっているような些事にかかわることでもなかろう。つまるところ、その手の一切合切(僕はこういうものを総じて「自意識プレイ」と呼んでいる)など幾らやっても仕方がない。僕の関大時代の恩師もかつては文章を載せていたようだが、『世界』や『正論』のような雑誌で、斜め切り専門、あるいは愚直な原則論しか期待されていないような型枠にクソみたいなことを書いていても無意味である。やはり、自分で議論の全体をコントロールできる、昔ながらのウェブサイトや(コメント機能を無効にした)ブログで、それぞれが書き続けたり、他の著者と批判し合うというスタイルを普及させる方がよいだろうと思う。Twitter や雑誌(あるいは昨今で言う「メディアサイト」)で他人に自分の論説の受け止め方を委ねるのは、やはりよくないと思う。もちろん、図説や装丁などが有効な場合は専門の出版社は必要だし、文章表現を更に洗練させるためにも編集者の力量に任せることも大切だが、出版物でなければいけないという道理はなかろう。どのみち、たとえ哲学をやっていようと現実の政治に関する分析力や提案力など大したことはない。死んでから「誰それ全集」を出してもらえるていどの権勢を誇っていてこそ、日記に書いたクズみたいな意見でも着目してもらえるのだ。

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