Scribble at 2018-03-28 07:33:23 Last modified: unmodified

何かの文献の書評や解釈あるいは解説という文書も、その読み手を選ぶことがある。したがって、たくさんの人に理解してもらうには、読み手として仮定する条件を減らさなくてはいけない。そして、そういう条件は「大学を出ている」といった詰まらない外形的な資格のようなものではなく、コミュニケーションの要件として導いた方が有効だろう。

一つの要件は、「初めて当該分野の本を読む人が理解できるように書く」ということだろう。日本語の話者としては、いま僕が書いている文章を理解できるていどの運用能力を仮定して、他に当該分野の背景知識がないという人を仮定する。したがって、当人が自覚しているかどうかに関わらず、学術的に指摘しておきたい関連性を述べているという体裁にはなっているが、実のところ多くの人からすれば単にペダンティックとしか感じられない文章は避けなくてはならないだろう。「この点は誰それのなんとか概念における四の五の的な印象を与えるものだ」といった、「誰それ」を知っていたり、「誰それのなんとか概念」を知らなければ理解不能な論評というものは、それがペダンティックなたわごとではなく真面目な比較思想史の話だと仮定しても、余分な知識を要求していて、単純に読み辛いのは事実だ。そして、そういう「他の思想家との距離感」でしかものごとの価値を測れないような人々というのは、得てして読み手に強い不信感を惹き起こすのである。つまり、そういう論者は本当の哲学者ではなく、何らかの「測量技師」に過ぎないという不信感だ。もちろん、そのような「本当の哲学者」というアイデアが一種の錯誤であるとポストモダニズム風に茶化すのは簡単だが、その簡単さを理解できるためには、皮肉なことに一定の哲学史の素養が必要なのである。

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