2018年03月22日 に初出の投稿

Last modified: 2018-03-22 22:12:49

とある経緯から連れ合いがニーチェの思想に関心を持ったらしく、所持しているという竹山訳の『ツァラトゥストラはかく語りき』を読み始めようとしたのだが、文字が小さくて判読し辛く疲れることや、旧字体の漢字で読めないものが多くて中断ばかりしていると読み進められないという不満があるようだった。僕も、確か高校時代に竹山訳で『善悪の彼岸』くらいは読んだ筈なのだが、『ツァラトゥストラ』は未読で興味もなかったため、この機会に読んでみたい。なので、現代語訳を買いなおそうと思っていた。というわけで、別件で船場センタービルを通ったついでに天牛堺書店に入って眺めていると、吉澤訳の『ツァラトゥストラ』二分冊があったので、買ってきた。現代語訳で読みやすい。

こういうものは、プロパーでない限りは一字一句に拘るよりも、まずは通読することに値打ちがある。竹田何某の弟子とかウーロン茶みたいな名前の物書きを始めとする、つまみ食い解説者たちの通俗書を読むよりも、一冊の古典を自分で実際に通読する方が遥かに有効だ。古典というものは、人によって異なる色々な経緯や動機や目的をもって読んでも、何かしら教えられるところがあるものだと思う(という確信がない限り、科学哲学の元プロパーだった僕が、ハイデガーやデリダも重要な哲学者だと大学院で公言などできるものか)。よって、あれやこれやと浅薄に乱読なんてしても哲学的には殆ど意味がないのであって、それは乱読しかやっていない、そして乱読くらいしかやることがない、ああした通俗物書きが哲学者としては何の実績も上げていないという明々白々な事実で分かることだ。

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