Scribble at 2018-03-05 08:05:19 Last modified: 2018-03-08 12:50:47

しろうと向けの本についての 内容の専門家による書評をのせるメディアがほしい。印刷物でなくウェブサイトでやることも考えられる(これはTwitterで見た意見)。個別学会よりも広い話題を扱う連合学会のようなものがあれば、そこの出版物とすることも考えられると思う(これはわたしの意見)。

しろうと向けの本について、内容の専門家による書評を

上記のように指摘してから、ご専門の気象学で利用できそうな書評のメディアを挙げておられるわけだけれど、もちろん出版や報道というのはデタラメな情報を広げてしまうというリスクを語りうる事柄なので、クズのような本が出版されたり愚かな番組が放送された後に対処療法としての書評や番組批評で牽制するだけではなく、出版社の編集者や決裁権者、そして新聞なら記者や編集局員による事前のスクリーニングも必要だ。但し、出版社にも情実や金儲け優先であれこれ決めるクズどもも多いし、「ジャーナリスト」や「報道機関」を名乗る新聞社やテレビ局の界隈でメシを食っている連中に、冷静かつ高潔なスタンスが取れる保証など全く無い。

よって、或る著作や番組やイベントなどの学術的な内容を評価したり批評するに当たっては、該当する分野の学術研究団体の成果(専門誌や標準的な教科書や ML のログなど)を権威の源泉として、そこへの適切な参照を伴う研究者個人の批評や、同じく適切にプロパーの成果を反映していると評価されたアマチュアの批評も活用してよいと思う。そして、何度か書いているが、僕が重視しているのはアマチュアのレイヤーである。

もちろん、自分自身が大学の外にいるからといって、僕は「在野」といった下らない自意識でアマチュアの価値を無条件に強調したいわけではない。寧ろ、現在のアマチュアは殆ど素人の読書家と同じレベルであり、しかもアマチュアとして学術研究の成果にコミットする仕方や基準や自己評価について何も考えていない日曜評論家か、アカデミズムにコンプレックスを抱えて外形的に学会のようなコミュニティを捏造したり学会誌のようなものを作っているだけのオタクでしかなく、はっきり言えば既存の学術の成果に寄生しているだけだ。

上記の記事の著者(ハンドル等から調べれば個人は特定できるが、正直いくら僕が情報セキュリティの専任実務家だとは言っても面倒臭いし、議論の本質でもなんでもないので匿名扱いとする)は学術研究コミュニティの内部で不当な通俗書や通俗記事や通俗ブログ記事などを批評して、(少なくとも現時点の成果に照らして)間違った情報が学術の名において伝播されないようにしたいということなのだが、以前も書いたようにプロパーがそのようなドブさらいをするのは時間の浪費であり、僕は門外漢を相手にした通俗的な論説を吟味するレイヤーを別に育てる方がよいと思う。逆に、学術の成果を適正に解説したり通俗的な本を書くにあたっても、サイエンス・ライターのような人々を育てる必要があろう(但し、いまの日本にそんな余裕があればだが)。

サイエンス・ライターは職業的な立場なので、もちろん一定の公的な基準を採用するのは当然だと思う。当該分野と関連する周辺分野について、特段の学習を要さないていどに用語や議論を理解できるということ、つまりは最低でも博士の学位をもつことは要求してよい。海外のサイエンス・ライターで、日本の雑誌記者のように修士号すらもっていない素人が進化論や素粒子物理について解説書を書くなどというのは、敢えて「素人が学者に取材しました」という編集方針をうたうわけでもないなら、それは単純に不誠実と見做されるのだ。よって、よく新聞記事で自然科学や情報セキュリティや経済学や歴史学、つまりは学術研究の成果に何の素養も知識もない記者がデタラメを書くと、それについて「記者にも一定の素養が求められる」などと批評している人々がいるが、そんなことでは解決しない。これは単に採用の問題なのだ。何の専門知識も持っていない人間(マスコミに勤めるにあたって社会心理学や言語学や映像学の初等的な勉強すらしていない人間を採用するのだから呆れたものだ)を記者として採用している日本の新聞社やテレビ局というのは、知識や情報あるいはそれらの伝達や表現というものを彼ら自身が軽視しているのである。たぶん、犯罪被害者や芸能人の自宅に押しかけては「視聴者の声」を代弁してみせたり、記者クラブの会話を聞き書きするか、日銀や警視庁から配られる資料を新聞記事やニューズ原稿として写経すれば報道になるとでも思っているのだろう。

そして、通俗的な書物や新聞記事やテレビ番組を積極的に論評しては賞賛したり叩き潰す役割をアカデミズムが委任しうるレイヤーとして、アマチュアのコミュニティにも一定の水準を求めなくてはならないだろう。とかく、イデオロギーやお金が絡むと勝手に既存の権威の代弁者を語るクズどもがたくさん出てくるからだ。昔ながらの素人愛好家の互助組織といった体裁では遅かれ速かれ人間関係だけで劣化するのは自明であるから、やや奇妙な概念ではあるが専門のアマチュアという方針を自分たち(あるいは既存のアカデミズムとの連携)で立てておくことが望ましいだろう。そして、牽制関係にある出版社や新聞社やテレビ局などとも距離をとる必要がある。取材してもらうとか出版を依頼されるといった事情だけで舞い上がってしまってはいけないのであって、そういう人間関係に引きずり込まれると、だいたい評論家なり通俗的な物書きというものは客観的かつ学術的な判断ができなくなるからだ。情実に巻き込まれると、そこで学術的な活動や方針を堅持するというスタンスは終わるのである。

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