2018年03月04日23時55分 に初出の投稿

Last modified: 2018-03-08 12:56:55

生命倫理学の雑誌論文や著作を眺めたりしていると、死に際してどういう態度をとるべきかという議論の殆ど全てが、「それは、ただの強がりではないのか」という問いに答えていないように見受ける。もちろん、それを言ってはおしまいだという気がするのも確かだが、しかし他方で無視できないほど多くの人々が過去に(「潔く」と言いうるかどうかはともかく、静かに)死んでいっているように思えるという事実に、まず我々は学ぶべきであろう。

特に何かの本を読んだりカルチャースクールで学ばなくとも、人がそういう心境に至れるのだとすれば、それこそソクラテスが言った「死への準備」としての哲学ではないのか。もしそうなら、そういうことを積極的に解明しないでアマチュア・サークルや宗教やイカサマ心理カウンセリングに事態を丸投げしておきながら、自分たちはワインを片手にジャズを聴きながら知覚の議論をしたり、暇と退屈だの、エロゲーと郵便物がどうだの、あるいは国内でもハエと同じくらい増えている「分析なんとか」に現を抜かしているプロパーというのは、何をしているのだろう。つまるところ、彼らは哲学の真に困難で重大な問いの数々を巧妙に避けたり "big question" だと言って遠ざけるアカデミックな処世術を大学院で学んだだけの連中なのではないかという気がしなくも無い。学生に教えるとか、会議の資料を作るとか、そういった実務は分かるにしても、それ以外、本当に哲学者としてあんたらは何やってるんですかって思う。

三浦さんらが編集した『人文死生学宣言』で新山喜嗣さんが書いていたように、死生学であろうと、因果関係の哲学であろうと、時空論であろうと、あるいは他の "big question" と呼ばれる大テーマであろうと、学界の全員で地雷原を避けるように大きなテーマを避け続けるというのは、本人が「哲学研究者」と名乗ろうが「哲学者」と名乗ろうが、ともかく哲学に携わる者のやることではないと思う。もちろん、大きなテーマを議論するための準備なり基礎として小さな話題や関連するテーマを考えたり議論するのは必要だが、いつまでそんなことをやっているのかという気がする。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook