2018年03月04日17時55分 に初出の投稿

Last modified: 2018-03-04 17:58:41

本稿の議論は、或る一つの問題に関わる。その問題は、何かを考えようとする殆どあらゆる分野に当てはまるし、これまで一般教養にも強い影響を与えてきたものであって、それはつまり理解や正当化はどこで終わるのかという問題である。何かを理解したり正当化することは、我々自身がどういう観点をもつかとは独立に妥当する、客観的な原理に終わるのだろうか。それとも、個人のであれ集団のであれ、何らかの観点において終わる――つまり極端に言えば、明らかに最も客観的で普遍的と思われる原理であろうと、それを支持する人々の考え方や議論によってのみ妥当したり権威をもつだけなのだろうか。私は本稿で、この問いを明確にしてから究明してゆき、或る分野で思考するに当たって、私が合理主義の答えと呼ぶものを、私が主観主義の答えと呼ぶものから擁護しようと思う。そして問題の要点は、我々が言ったり考えたりする物事の根っこに、単数か複数かに関わりなく一人称の観点が隠されているかどうかにあるのだ。

Thomas Nagel, "Introduction" in The Last Word.

Google+ でネイグルの本から引用していた人がいたので、土曜日に訳本(『理性の権利』、大辻正晴/訳、春秋社、2015)を図書館で借りてきた。早速「序論」だけ読んでみたのだが、困ったことにアホになったのだろうか、ネイグルの議論の論旨がよく飲み込めないのである。合理主義と主観主義(相対主義)を対比して、ネイグルは理性や合理主義というアイデアを擁護しているのは分かる。でも、議論が展開していく経過において、なんで彼がそこでそんなことを書いているのかが分からない。修士の頃に竹尾先生からいただいたコメントを思い出すと、「そういうことをここで書く効果が分からない」というやつだ。もちろん、ネイグルが論旨のよく分からない議論を並べているとは思えないので、Google Books で原文を眺めてから "Introduction" の冒頭を訳してみたのが上記の「引用」だ。(何が書いてあったのか殆ど覚えていないので、もちろん自分で訳すときに大辻さんの訳文は全く見ていない。)

後で読み比べてみると分かったこととして、翻訳の方針として大辻さんは「~的」という表現を敢えて避けるような訳し方をしたと書いておられるが、それもそれで窮屈なことだと思う。"objective and universal principles" を「客観的で普遍なる原理」と訳していて、更に両方から「的」を外すなら「客観にあって普遍なる原理」といった表現になろうが、これでは明治時代の日本語だ。もちろん「~的」という表現を使わなくても的確に表現できる言葉があれば使えばいいわけだが、敢えて「~的」という表現を使わない方針にまでする必要はないと思った。そして文章表現というものは、恐らく一つ何か不自然な方針を採ると他の言葉の選択にも影響がある。僕も、自分で文章を書くときに「そのはてなのやつは」といった、平仮名の名詞を挟み込むような表現を避けたり(どこからどこまでが名詞なのか分かり難い)、「諸条件違反等の」といった、たくさんの漢語を繋ぐような表現を避けて「諸々の条件に違反するなどの」と助詞や和語を可能な限り挟み込んだりする。これもこれで表現が冗漫になりがちだし、無分別にやると論旨がぼやけてしまうこともありうる。

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