2018年01月25日16時08分 に初出の投稿

Last modified: 2018-01-28 23:42:54

幾つかの機会に述べてきたが、僕はサブカルをネタにして反転した社会批評をするのは危険だと言ってきたし、VIB やゾンビやメアリーといった哲学的なオモチャは、酒場の会話に持ち出すような類の話だと言ってきた。概して、思考実験というものには論理的に明白なリスクがある。それは、思考実験の中には、将来の任意の時点で物理的にありえる条件を前提にするのではなく、「もし関ヶ原の戦いで東軍が負けていたら云々」とか「もし私が女性として生まれていたら云々」という、反事実的な前件を持ち出すことによって、論理的には何でも言えてしまう事例がたくさん含まれており、それらを活用する人々は過去の物事の一部を単純に否定して思考することが物理的な他の要件と矛盾したり、それどころか論理的にありえないことを前提することになるのかどうかという点に無頓着になってしまう。たとえば、関ヶ原の戦いで東軍が負ける(もっと具体的には徳川家康が死亡する)などと、事実の一部を便所のスイッチよろしく気楽に切り替えるだけなら子供にでもできるわけだが、それが可能になる条件としてどういう出来事が予想されるかとか、他の条件が同じならば(実際にはこれはありえない)後でどういう出来事が予想できるかとか、そうしたことを正確に推定したり推測することは非常に困難である(というか、そんなことが歴史学の素養だけで可能なら、政治学や経済学など不要だろう)。

VIB は、そのような状況で我々が自意識をいまと同じようにして保っているという強い仮定を論証しない限り、水槽に漬かっている脳は、我々が自意識を維持したり認知するという状況とは違う状況に置かれている何かであって、その区別が可能だと言い得る時点で、 VIB を持ち出す心の哲学は(それらが区別不能であるという逆の仮定を置いているという理由で)重大な論点先取を犯していると言える。そして、哲学の歴史において登場してきたあれやこれやの例え話の大半は、事実に反する想定の議論を「思考実験」と呼んで、まるで哲学の正当な一つの分析方法であるかのようにマーケティングを展開してきたのであるが、その多くは単に論点先取として重大な仮定を議論に忍び込ませていると非難されることを避けるためか、無自覚なまま「哲学の議論みたいなもの」をするために下らない事例を作り上げて、通俗書や教科書どころか専門の雑誌論文の真面目なテーマにまでするというありさまである。

なお、僕は分析哲学で議論されているカジュアルな例え話のスタイルや文体を難詰しているわけではない。分析哲学や科学哲学にあるラッセル以来の散文という伝統は、恩師の竹尾先生と同じように高く評価している。オンラインによくいる自称天才思想家のように、クオリアを繋ぎとめるという言葉の魔術説に囚われた奇怪な造語をどれほど捻り出そうとも、「意味」を通時的・共時的に安定して保存したり伝達することは、言語なり記号操作の有限性とかヒトという動物の認知構造の限界ゆえにできないことなのである。信号を伝達した先の相手にも同じ反応を引き起こすということが「コミュニケーション」なり「伝達」の本質であるならば、そのために必要十分な情報が何であるかを決定することは困難であり、仮に幾つかの項目を定めたとしても、それらは相手がまさに違う個体であり、そして相手がまさに信号を受け取る側として立場が異なるがゆえに、全く同じにはできないという原理的な限界もある。それゆえ、我々はそうした限界や自分自身の知識や思考の未熟さなども弁えたうえで、ごく普通のありふれた言葉だろうと難解な造語だろうと、それらによって理解した何かについて、我々が考えるべきことを考えるしかないというスタンスが健全である。

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