2018年01月19日11時57分 に初出の投稿

Last modified: 2018-01-19 11:59:05

かつてタガートは computational な科学哲学の概論を書いたし、チャーチランド(パット)も computational な神経科学の哲学を概説している。哲学において計算やプログラミングを(研究対象としての概念ではなく)実務として取り入れるアプローチは、その是非も含めてなかなか議論が進んでいないようだが、既に統計学を利用した研究においては R や Wolfram Language のような言語を実際に使っているし、認知科学の哲学でも LISP を使う人がいる。ちなみに、Mathematica を創始した Wolfram は philosophical logic の研究者であったシビル・ウォルフラムの息子である。

もちろん、哲学の研究をプログラミングによって効率よく実行しうるとか、哲学の課題を何らかの意味での「計算」が解決する(可能性がある)などと考えているわけではないし、そう主張する必要もない。確かにわれわれの思考が本質的に「計算」だと考えるなら、そういう意味合いで主張することは可能だが、心の哲学として特定のスタンスにコミットすることと、哲学の研究や実務にプログラミングを採用することが何らかの含意関係にあるというわけでもない。

しかしながら、研究の実務にプログラミングを利用するというアプローチにさほど強い有用性が感じられないのも事実である。例えば、僕のように probabilistic causation を研究テーマにしていると、もちろん統計・確率の数理モデルを立ててシミュレートしたり解析するために何らかのプログラミング環境を利用できるのかもしれない。しかし、哲学として因果関係を研究している場合には、或る初期条件からスタートして長期的かつ大規模なシミュレートを行ってから結果を検証するという、気象予測のようなものは必要ない。なるほど、概念分析だけで事足りるわけでもないのは確かだが、プログラムを書いたところで、この宇宙や自然にそういうコードがあるという奇妙な実在論を信じているわけでもない限り、それはどこまで言っても単なる「宇宙のなりたちに関する疑似コード」にすぎないのである。仮にそういうプログラミングによって、あらゆる自然現象が相当な精度で予測・制御可能になったとしても、そのコードは自然現象を(もちろん非常に巧く)表現しているにすぎず、それこそが自然現象だというわけではない。恐らく、マックス・テグマークの the mathematical universe に対する簡潔な批判の骨子は、これと同じであろう。もっと分かり易く言うと、或る物の香りを非常に正確に伝えられる言葉があるとしても、その言葉が匂うわけではない。そして、これはヒトの認知能力が宇宙を(少なくとも人の基準において)「理解」するという状況に到達しうると言える条件を備えているのかどうかという問題に行き当たり、いまのところ僕は epistemic closure を支持しているので、十分どころか必要条件すら備えていない可能性があると思う。(更に進んで、我々が「何を知り得ないか」ということすら分かっていないとまで言い得るかどうかは、ほぼ何も言えないだろう。)

それに、プログラミングやコンピュータを利用する場合の基本的な限界として指摘すべきことだが、(1) どういう処理系を使おうと、そこで制御される数値の型をもつデータは、どれほど多くの桁数を扱えようとも、数学的に厳密な意味での実数ではありえないという限界がある。(2) 更に、とりわけ確率にかかわる概念を扱う場合には、なんらかの起きる確率という場合に、それが実際にどういう式で表せる確率なのかとか、それを一つの厳密な量として扱ってもよいほど他の条件から独立して扱える事柄なのか、本当のところ一個の実数で表せるような量なのかがはっきりしないこともある。例えば、「大阪府で明日の午前中に 1mm 以上の雨が降る確率」という表現は見慣れたものだとは思うが、「大阪府で明日の午前中に 1mm 以上の雨が降る」という単独の自然現象が宇宙の何らかの単位として成立するわけではない。これは人が勝手に推測するにあたって制御しやすい条件を設定しているから「意味を為している」だけであり、この宇宙に人類がいなかったならば、こんなことが何か「意味を為す」とは全く思えないし、いわんや哲学的に何か特別な意味をもつとも思えないのである。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Google+ Twitter Facebook