2018年01月16日16時19分 に初出の投稿

Last modified: 2018-01-16 16:19:59

心の哲学や意識の哲学や認知科学の哲学などで議論されている「意識」がなんなのかは、実際のところ議論している人々において一致を見ていない。つまり、何について「ある」とか「ない」とか議論しているのかが、場合によっては理解不能に陥る可能性がある。もちろん、正確に言って学術用語に限らずコミュニケーションなるもの全般において、正確かつ厳密に相手と理解が一致するなどということは、どういう条件でそう判定できるのかすら分かっていない。もしかすると、正確かつ厳密に一致しているのかもしれない(その条件を僕らが正確かつ厳密に知っているという保証はないが)し、原理的にそれは不可能なのかもしれない。

ともあれ、そういう次第なので、「意識」についてはいまだに雲をつかむような事態が進行しているとも言い得る。だが、少なくとも僕の印象では、哲学者が議論するときに念頭に置いている「意識」なるものは、ワインを味わっている自分自身とか、その手の何かすごく気取ったもののように思えてならない。別の機会に「身体性」なる用語でイメージされているものに偏りがあるのではないかと指摘した文章でも書いたことだが、たとえばウンコをしたときに安堵する気分とか、そういう誰にでも共有しうる実感をともなった事例が(なにも露悪的に書いたりセンセーショナルに書く必要はないが)選ばれずに、やれワインの深みだのと洗練された貴族趣味的な事例ばかりが引き合いに出されるのはなぜなのか。昨今では、同じようにして映画の哲学やらクラシック音楽の哲学やら分析美学やらといったものがプチブームになっているが、僕には古臭いコンプレックスというか、イギリス人のフランスへの憧憬を哲学で繰り返しているだけではないのかと思える。

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