2018年01月11日15時45分 に初出の投稿

Last modified: 2018-01-11 16:49:00

科学哲学の概論みたいなものは難しいし、こういうことはプロパーが(できれば、いまの時代は日本科学哲学会のサイトで)公開するのが良いと思うのだけど、個人的なガイダンスみたいなものは書いてみたいと思っている。幾つか利点があるとよいので、多くの科学哲学の概論が使っている量子論や進化論を敢えて無視するというのでもいい。特に、物理はともかく生物学の事例を持ち込んでいる概論は、科学哲学というよりも哲学的に言って偏っているものがあり、それを自覚して読み手に伝えて相対化しているとも限らないので、用心した方がよいだろう。(もちろん、他の分野を使う場合でも同じ危険はある。)

さて、概論としては「標準的」な叙述をしてからフェミニズムとかポストコロニアリズムとか追加していくんだろうけど、もし「標準的」であることを無視して書くなら、自分が正しいと思うなら最初からそれら alternatives の成果を加味して叙述するのだろう。それが「標準的」でないのはなぜかという説明も加えて。つまり、いつまでたってもタイトルにわざわざ "Feminist Introduction to" などと書かなくてはいけないのはなぜか、ということでもある。もちろん、そういう「いつまでたっても改善されない」という現状に訴えるため、わざと「いまだにこういうアプローチは特殊なものと見做され、こういうタイトルを付けざるを得ない」とアピールすることも一つの手法だろう。だが、序文などでそのことを指摘しておかないと読者に意図が伝わらない。さりとて、敢えて「フェミニズム」のアプローチであることを標榜しないと、さまざまな成果によって科学哲学の歴史の叙述や形式的な解説に取り込まれて、一部の解釈ではフェミニズムを希釈化する事実上のバックラッシュになりかねないとも言い得る。

また、僕は(竹尾先生の弟子だからというだけでなく、僕自身がきちんと消化しきっていないという反省も含めて)論理実証主義やプラグマティズムやラッセルらの成果を軽快にスルーしたり古臭いものとして扱うような概論は、古典の解釈や先人の人物像みたいなものに固執するだけで議論や概念そのものへコミットする力がない弱腰の概論と同じくらい、まずもって「哲学者」としての見識を疑われると思っている。なるほど、そういうことを臆面もなくやってのける進歩主義(あるいは、デイヴィッドソンの訳本の帯に書かれていた「ブルドーザー」のようなスタイル)が分析哲学や科学哲学の取柄といえなくもない時代はあったし、いまでも論点の展開や議論の進捗によっては言えるとは思う。特に、歴史的再構成への些末な欲求によってしか哲学にかかわっていない読書家あるいは二流の歴史学者や古典学者たちから距離をとるためには、そういう力が必要な場合もある。

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