Scribble at 2018-01-11 09:54:59 Last modified: unmodified

寝床へ入ったときに、ふとスーザン・ブラックモアが意識についてインタビューした本を読み返そうと思ったのだけど、寝なくてはいけないから、朝になって本棚から取り出して読んでいた。ブラックモアはカウンターカルチャー系の色々なことをやって、自意識を「消す」訓練までやったらしいけど、それもまた昨今のプチブームになりつつある仏教を採り入れた心の哲学みたいなものに通じるものがあるんだろうか。確かに、意識なんて最初からないとか、意識があるなんて自明だといった単純なところからスタートする議論で納得できれば、当人にとっては勘違いでもそのまま生きていられる。しかし、自己欺瞞という概念が全く成立しないところで哲学が成立するとは思えない。したがって、あとがきで山形さんが書いているように、意識などないとか意識があるのは自明だという信念からスタートしている議論は、個人としても説得力を感じないし、或る種のカルトにおいてはともかく普遍的な力はないだろう。

それはそうと、ブラックモアの本を読んでいて感じることだが、もしかすると、説明としては意識よりも生理的な反応としての「着目」なり「注意」みたいなふるまいを基礎にした方がいいんじゃないか。そして、意識についての発達的・進化的な議論をどちらも含めた「発生論」としては、ヒトに限らず何かに注意するという挙動は他の動物にもあるので、少なくとも進化的な議論として展開できるかもしれない。ヒトという種の中での(歴史的な発達まで区別すると、「発生論」には種の進化において獲得すること、個体の表現型として発生すること、種の中で文化なり習慣の性向として獲得することという三つがあることになる)発達を考えると、まずアニミズムを仮定すれば自然現象にも何か着目していることや志向性があてがわれて、その「目的」のわからなさが人々の恐れを呼ぶ。しかし、それは次第に「神」なるものを措定することで我々自身の思考の枠組みに回収されることになった。対して、自分たちについては何か目的があるという自覚が、果物の収穫なり宗教的な観念なりによって共有されるしくみができあがり、いわば結果の予測可能性という安心を維持するために動機とか意志といったものが逆に(当時は「こころ」が何であり、どこにあるのかも分からなかった)想定されて、その中心として機能する「逆向きに求めた末の神」として意識が set-up されたのではないか。

うーん。ラノベみたいなレベルの御伽噺だな。

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