Scribble at 2018-01-09 17:14:55 Last modified: unmodified

Benatar のいう "predicament" は非常に重すぎて、「苦境」のような訳語では逆に失笑を誘ってしまうような気もする。そもそも、それが "predicament" であると認識したところで nothing だという他はないわけで、これに耐えることこそ哲学するということの本領のようにも思う。つまり、誰がどういう動機や経緯から関わるようになったとしても、厳密かつ是々非々の推論を続けていけば、殆ど(無能でない限りは)誰もが遠からず到達するような論点なり視野ということだ。もし「宇宙論的な視野に立てば、個々の人は言うに及ばず人類が生存したり(存在論的差異を仮定したうえで)「有る」ということに『意味』などないのではないか」という問いがそのようなものであれば、この問いについてかすりもしない人間は哲学しているとは言えないだろう。

僕は「哲学に正常も異常もないが、『哲学をやっている』と称している者にはその区別があると思っている」とプロフィールのページで書いているが、上記のような根本的な問いや疑問をスルーしたり全く到達できていない「哲学」は、異常な哲学ではなく、単に哲学でもなんでもないと言うべきなのだろう。

しかし、そういう疑問にどこかで触れてしかるべきであるという考えは、それはそれで今度は「自意識」ではないのかという疑問を惹き起こす。こうした問いを考えるにあたっては、もちろん当人が哲学者であるかどうか、あるいは「哲学者」と呼ばれるかどうかなどということは、全くもって些末である。したがって、哲学をしているかどうかという規準で何事かを区別することに、この問いへ直面するための必要条件が含意されていなければ、或る人物が哲学をしているかどうかなど、他の人たちが「哲学している」と呼ばれたがっているという社会学的な事情や利害関係を除けば、どう考えても些末としか言いようがない。しかし、上記の想定が正しければ、哲学していない者は上記の問いへ直面していないのだから、上記の問いに直面するための必要条件を満たしていないことは明らかであり、この議論は循環になってしまう。

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