2018年01月09日23時11分 に初出の投稿

Last modified: 2018-01-09 23:11:13

某 ytb さんとは似たような感覚をもっていることもあるのだけれど、ポストモダニズムの「ユーザ」ではなく「ソース」として言及されている人々については、少し評価が違っているように思う。たとえばカルナップの言葉をひいてみて、彼の言語観が「違う」と指摘することだけなら、いまとなっては簡単かもしれない。けれど、「ふぅん、だから?」と聞かれて straightforward な理屈を出せる(あるいは、そういう理屈が出せない理由を straightforward に出せる)人が、どれほどいるだろうか。そして僕が感じるところでは、デリダのような人は言語について「違う」と言いながらも、さてどう対処するべきかに難渋していた一人だと思う。そして、僕は大学で科学哲学を専攻していたからこそ、それが或る意味では分かるのだ(その前に高校時代にデリダやフーコーを読んでいたことの方が理由なのではなく)。言語について言語で説明するとか、ヒトの認知について認知するとか、理屈と証拠と根拠と同意条件を全て改定可能で疑えるような状況におかなくてはならないのであるから。そして、厳密にこれまでの研究成果を整理すれば、そうするしかないのである。すると、たとえ「近代」と言って軽くあしらえた形式的で単純なモデルであっても、それにはそれの認知的な効用があるとも言える。僕が、科学哲学の元プロパーとして論理実証主義をあらためて丁寧に研究するべきだと思うのも、同じような理由からだ。だいたい、いまのプロパーで、検証理論とか意味公準を厳密に理解して、「現代的な」観点から批判し尽くせる人が本当に大多数を占めているのだろうか。

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