2018年01月01日14時42分 に初出の投稿

Last modified: 2018-01-01 14:42:01

因果関係の分析で一つの有力なアプローチと考えられている counterfactual dependency は、僕には全く受け入れられない。仮に、「同一の原因と先行条件から異なる結果が起きたりはしない」という、ごく一般的に因果関係の特徴として(たとえ確率的な解釈においてすら)受け入れられている主張を認めるなら、或る事象がしかじかの特性(それが実際に起きたということも含めて)をもつかもたないかという1点だけで違っている二つの可能世界というものは認められないだろう。なぜなら、先に認めた主張を受け入れるなら、それら二つの可能世界は或る事象が起きたり起きなかったり、あるいはその事象が特性 A を持つか持たないかで違っているのだから、原因においても何らかの違いがなくてはならないからだ。

つまり、counterfactual dependency implies a negation of causal dependency ではないかというのが僕の強い疑問だからだ。そもそも、僕は分析哲学にかんする本や論文を読み始めた頃から、いまでも可能世界意味論というのは一種の思考実験か言葉の彩というべきものであって、理論物理学者にとっての或る種の数学と同じく、規約的ないし操作主義的に「使える」というだけの理屈に過ぎないと思っている。ちょうど、色々なことを数学や工学の理屈で解析したり説明できるからといって、「人間とはすなわち数である」とか「人間とはすなわちファンクションである」と表現することが比喩として以上の意味を持たないと理解されるのと同じである。われわれ記号や発声音を通じてなにごとかを通信したり認知する生き物としてのヒトは、それがどう解析されたり説明しうるのであろうと、それ自身の「当事者性」をもっているのである。仮に、ヒトもまた物質であり、存在論的差異を仮定したところの「有る何か」でしかないと言ったからといって、それで実存としてわれわれ自身がわれわれ自身の心情や心理について何も感じなくなるわけではないだろう。そして、そういうステージに自分自身に関する認知を「捨象」することが知的営為の目標地点であるとは思えないのである。寧ろ、それはヒトが昆虫以下の自意識を欠いた有機体へ退化することによってしか為し得ないと思われる。

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