Scribble at 2017-12-22 07:36:37 Last modified: 2017-12-22 07:40:50

例の子宮頸がんワクチンの一件は、統計の哲学や確率の哲学に数年前からプチブームで携わってるプロパーが、利害関係の外にいる「専門的素人」だからこそ、single-case probability の議論とかを使って何か提言できたと思う。もちろん僕らも singular causation の議論を使って何か言えたはず。

ここ数年来、とりわけ東北での震災以降に「リスク」という言葉を振り回しているマスコミとか「放射能ママ」に代表される人々にとっては、「いまその場所にある危機」として自分の子供が癌になるかどうかだけが問題なのであって、統計的に日本の子供の何人が子供のうちに癌になるか、あるいは(敢えて露悪的に言っているわけでもないが)他人の子供が癌になるかどうかは、はっきり言えばどうでもいいのだ。こういう、彼らにとってかけがえのない「これ」だけに特化した確率とか可能性の話は、もはや統計としての概括的な数字をどれほど持ち込んでも説得不能であって、こういうケースではカウンセリングが必要なのも確かだが、そのカウンセラーに統計や確率やリスクマネジメントについての知見があるとは到底思えないのである。

もちろん、仮に propensity の解釈を採用する哲学者であっても、個々の single-case において彼らの子供が癌になるかどうか、いつなるのかを予言してみせることなどできまい。よって、僕は propensity 説というのは一種の結果論としてしか正当化できない、はっきり言えばごまかしでしかないと思っている。哲学における「○○実在論」の幾つかは、この手の、こう言っても許されるなら個々のケースで事物が固有に何かの特性をもつというアニミズム的とも言ってよい認知上のごまかしだと思う。

とは言え、世界の固有の特性に確率が含まれないという別の意味での実在論を支持したいわけでもない。というより、僕はそういうことに関しては認知クロージャや経験主義を支持する「べき」だと思っているので、僕が上記の事例で人が癌になるかどうかの個別の事例に propensity を想定しないのは、説明のレベルを仮定した場合での話だとしてもよい。

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