Scribble at 2017-11-27 09:42:05 Last modified: unmodified

What if consciousness is not what drives the human mind?

このような議論に限らず、ヒトの心身をコントロールする脳の操縦室にいる兜甲児みたいなものとして「意識」を理解する哲学者は殆どいないと思う。しかし、だからといって永井さんや河野さんらのように「実在しない」という表現は、それ自体が哲学の用語なので、回りくどいし誤解を招きやすい。僕は意識は結果だと思っているし、そういう意味では(世界 III で、という但し書きは必要かもしれないが)「ある」と表現していいと思う。しかし、デネットが何度も語っているように、意識とはこれまで描かれてきたほど「素晴らしい」ものでもなんでもないだろうし、意識に関する通俗的な物書きにしばしばみられる安易な「環境との相互作用説」とも言うべきホーリズムも馬鹿げていると思う。もちろん発生論的に言って外部環境との相互作用によって意識という結果を維持するような脳の仕組みが出来上がったとか、個体としてもそのような機能を維持するように発育するようになったとは言えるかもしれないが、「それこそが意識である」というのは短絡である。

なお、意識というテーマは、いま当サイトで更新している死の恐れというテーマとも関連していて、そもそも意識がなければ thanatophobia も起きない(機序として)のか、それとも成立しえなかった(発生論として)のかという論点を取り上げる予定がある。そして、議論の推移によっては、もちろん「thanatophobia を本当に解決したいなら、薬や外科的な処置によって脳の機能の一部を削ってしまう方がよい」という結論が出る可能性もあろう。傍から見ていて客観的には、それは悲しく惨いことかもしれないが、主観的には果たして「幸福」かもしれないのである。そして、それを選ぶ権利というものがあるのかどうか。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook