Scribble at 2017-10-30 10:30:34 Last modified: 2017-10-31 17:23:23

「世界的にみれば、現代哲学の主潮流は、あきらかに分析哲学にあります。しかしながら、我が国では、いまひとつ人気が出ない。論理思考であることも要因のひとつかもしれませんが、なによりも、これという入門書がない。」

これ或る本のリードなんだけど・・・というか検索すればすぐに分かるから書くけど、八木沢敬さんの『分析哲学入門』という本の解説文なんだよね。で、僕は科学哲学が専攻なので分析哲学の正確な事情は分からないにしても(日本では1980年代くらいまでで通史が止まってるように思うけど、1980年代くらいから分析哲学と科学哲学はかなり乖離が激しくなって詳しい事情が分からない)、2014年の時点でよくもこれだけ党派的な文章が書けるものだと、逆に感心するんだよね。

分析系のスタイルが一つの大きな潮流になってきているなんてことは、それこそ「世界的にみれば」、英米だけでなくヨーロッパでもアジアでもプロパーなら誰でも知ってることだし、哲学を勉強さえすれば誰でも分かる。一般人だけが、いまだに哲学と言えばプラトンや実存主義や弁証法的唯物論だと思い込んでいるかのように仮定しているようだけど、一般人はそもそも哲学にそんな固定観念すらないし興味もないのだ。実際には、そういうお化けみたいな固定観念が世間にあるかのように描いているのは、不勉強な新聞記者とかテレビ局の編集委員とか、要するに不勉強な連中だけなのだ。プロパー、いわんや、いやしくも哲学を専攻する人間が何もそんなお化けを怖がる必要はない。そして、いかにもそういうお化けがいるかのように怖がって見せる文章をリードに使うセンスというのが、出版畑にいた僕のような人間からすれば残念に思う。だいたい、そういう潮流が「あきらかに分析哲学に」あるから、哲学としてそれがどうしたの? そういうことを気にしてものを考えるべきなのかどうかを教えるのが哲学ではないのか。英語は哲学の授業をアメリカで担当できるていどに読み書きできるのだろうけど、自分自身で哲学をしたり教える資格があるのかどうか疑わしいと思わせるようなことを宣伝して、何がうれしいのか。

次に、「これという入門書がない」というのは、八木沢さんご自身で納得いくものがないということだろう。どういう教科書や通俗書を書いても、それらは厳密さを犠牲にしたり、書き手の関心や理解に応じて強調するべきポイントが違っていたりするので、どうしても他のプロパーからは十分に納得されないという結果に終わる。それはそれで分かるので、教科書は書き継がれなくてはならないし、後の世代がオーバーライドしなくてはならない(場合によってはオーバーロードのようなものとなる、つまり単なる上書き修正ではなく、用語の扱われるべき脈絡がそもそも変わってしまい、或る言葉に複数の概念が混在していたと理解される場合もある)。したがって、ご本人が納得いくテキストを書きたいという動機は理解できるし、どんどん勝手に色々な人がテキストを書けばいいと思う。そして、実際に八木沢さんのテキストは従来の分析哲学の入門書とは違って通史を従にする一方で、議論やトピックの結びつきを主にしていて興味深い。だが、それらを三冊まとめて「上級」だの「中級」だのと馬鹿げた区別をするセンスも、僕のようにあらゆるトピックが「上」も「下」もないと思っている(関係概念からであろうと、言葉についての問いであろうと、どこからでも説明したり哲学を展開できると思う)、そしてそれができる才能くらいはあると思っている人間からみれば、残念なパフォーマンスだと思う。なので、当サイトでもそういう説明を展開したいとは思っている。哲学の議論や概念に「上級」とか、ハーヴァード大学大学院レベルとか、あるいは岸和田の底辺校レベルとか、そんなものはない。

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