Scribble at 2026-03-16 12:20:28 Last modified: 2026-03-16 12:43:22
[Gemini による要約] この論文は、哲学者デヴィッド・チャルマーズ(David Chalmers)が提唱する「バーチャル・リアリズム(virtual realism)」に対し、バーチャルリアリティ(VR)の本質はデジタルな実在性よりもむしろ「フィクション」としての側面に深く根ざしていると反論する内容です 。チャルマーズは、バーチャルな物体がデジタルのビット(digital bits)に基づいていることを根拠に、それらは物理的な物体と同様に「本物の実在」であると主張しました 。しかし著者たちは、バーチャルな物体はそのデジタルな性質ゆえに、多くの場合において「本物の(genuinely)」対象(例えば生物学的な猫など)ではないという点を重視しています 。著者たちが提示する核心的な概念は「属性的フィクション主義(attributive fictionalism)」です 。これは、バーチャルな物体が実際には持っていない性質(色、形、生物学的な種など)を、ユーザーが「あたかも持っているかのように」見なして(pretend)やり取りするように設計されているという考え方です 。著者たちによれば、VRにおける没入的かつインタラクティブな体験は、ユーザーがバーチャルな物体を本来とは異なる性質を持つものとして解釈する「フィクションの前提」があって初めて成立するものです 。したがって、たとえバーチャルな物体がデータ構造として実在していたとしても、それによって構成されるバーチャル世界は属性的な意味でフィクションであると結論づけています 。この主張を補強するために、論文ではチャルマーズの「バーチャル性質実在論(v-property realism)」と「デジタル優先主義(digital primacism)」という2つの反論を精査しています 。まず性質実在論について、著者たちは、あるバーチャルな性質(例えばバーチャルな赤色)が特定のデジタル構造と同一であるとする強い立場は、異なるシステム間で同じ性質が保持される「多重実現性(multiple realizability)」を説明できないため不十分であると指摘します 。また、経験豊富なユーザーは世界をデジタルなものとして捉えるというデジタル優先主義に対しても、著者たちは「バック・ストッピング(buck-stopping)」という概念を用いて反論を展開しています 。「バック・ストッピング」とは、ある認識がそれ以上の問いを必要とせずに理解の土台となる性質を指します 。著者によれば、ユーザーがバーチャルな物体を「椅子」や「青色の物体」として一般的に認識(generic recognition)することは、それだけで没入的な行動を可能にする認知的な足場となりますが、単なる「ビットの羅列」や「データ資産」として認識(digital recognition)しても、それだけではVR内での直感的な対話は不可能であり、翻訳のようなプロセスが必要になります 。このことから、デジタルな理解よりもフィクション的な解釈の方が認知的な優位性を持っていると論じられています 。最終的にこの論文は、バーチャル世界が実在するかどうかという問いと、それがフィクションであるかどうかという問いは切り離して考えるべきだと示唆しています 。たとえバーチャルな物体がデジタルな実体として存在していたとしても、ユーザーがそれを体験する際には、デジタルな性質が欠落させている「本物らしさ」を補うためにフィクション的な属性付与が不可欠であり、その意味でVRのフィクション性はむしろそのデジタル性から導かれるものであると結んでいます 。
正直なところ、僕はこういう話題って哲学で議論するようなことなのかという気がしてるんだよね。しかも、チャーマーズのように存在論みたいな脈絡で議論するのは、哲学的に言って筋がいいとは思っていない。せいぜい認識論、あるいは認知科学の哲学的な議論において取り上げるくらいが妥当だろうと思う。だって、この宇宙には本質的に「リアル」と「ヴァーチャル」の区別なんてものがないんだから。宇宙がそんな区別を法則だろうと定数だろうと抱える必要がどこにあろうか。もちろんだが、これを迂闊に「物理的に抱える必要はない」と言ってしまうと語弊がある。なぜなら、その「物理」・・・実際のところ「物理主義」を強く信じたり支持している人たちですら陥っている誤りだと思うが、この「物理」というものは、しょせん現代の人類が到達し知識として手にしている範囲での情報にすぎないからだ。なので、僕が「宇宙がリアルとヴァーチャルの区別を抱える必要はない」と言っているとき、僕は宇宙が「物理的に」そういう区別を抱える必要はないと言っているわけではない。ただ、もちろんだが人類が正しいと考えて共有している範囲では、僕も「物理的に」という形容で記述されたり説明されることに同意している。しかし、それは哲学的にというよりも、どちらかと言えば知識社会学的に、あるいは社会心理学的に同意しているということであり、敢えて悪く、そして通俗的に言えば「社交辞令的」あるいは「世渡り」として同意しているにすぎない。
というわけなので、僕はこの論文でも登場しているチャーマーズという人物は、例の「意識のハード・プロブレム」という話題(僕は、PHILSCI.INFO でも何とか述べているように、これはインチキな問いであり、哲学的に言ってどうでもいいものだ)も含めて、何か胡散臭いものを感じている。ただ、日本では殆ど読まれておらず紹介すらされていないが、彼の Constructing the World というタイトルの、カルナップの著書を題材にした研究書は非常に興味深い議論が多く含まれていて、研究者としては有能だと思う。
さて、かなり余談が長くなったが、本稿はそのチャーマーズが提唱する "virtual realism" に対する反論だ。virtual realism は、Google Glass などに投影されるヴァーチャルな広告とかアイテムがデジタル・データという電子化学的な存在を前提にしているので、そういう意味ではありありとした物理的な基盤をもつものであり、それをもって「リアル」と呼んでもよかろうという。これに対して、著者は、ヴァーチャルであるということの本質はヴァーチャルなものが「本物ではない」ということであるという。この時点で既に分かるように、彼らは「ヴァーチャル」という言葉の意味について、それを存在論的な脈絡で使うべきなのか、それとも認識論的な脈絡で使うべきなのかという、食い違ったところで議論しているように思う。したがって、極端な事例を使うと、彼らは一方で「トマトは野菜か、果物か」と議論しながら、他方で「トマトは美味いか、不味いか」と議論しているようなものだ。これではかみ合うわけがない。
そして読み進めると、著者は multiple realizability の概念を使って、そもそもヴァーチャルであるということを存在論的な脈絡で議論すること自体が誤りであるという仕方で、双方の議論をつなげようとする。つまり、ヴァーチャルであるかどうかは「基質(それがなんでできているか)」の問題ではないというわけだ。なぜなら、或る対象がヴァーチャルであるということを特定のデジタル・データの物理的な特性や値に限定したり特定すると、multiple realizability が成立しなくなり、他の素材を使っても成り立つという特徴がないということになるからだ。これはこれで、一つの反論になりえる。
だが、僕はこの反論には幾つかの疑問がある。それは、既に PHILSCI.INFO で述べた通り、もちろん僕が multiple realizability という概念が論点先取の誤りを犯している可能性のある、胡散臭い概念だと思うからだ。この概念は、心や意識の哲学は言うにおよばず、ここ最近はヒトの意識や知性がシリコン上にも「実現できる(realizable)」というシンギュラリティ関連の議論に登場し、いわゆる「意識のアップロード」という、僕に言わせれば SF おたく、あるいは異世界転生アニメおたくの妄想だとしか思えないようなタワゴトを支えるコンセプトの一つとして、multiple realizability が持ち込まれている。そして、この論文では、ヴァーチャルであるかどうかは(著者によれば)認識論的な脈絡で語られるべきことであるから、そういう対象の基質がデジタル・データであるか紙であるかは問わないというわけである。
もちろん、僕はこういう議論が妥当に通用するためには、或る対象についての認知内容 A と B とがどういう意味で双方の基質において "realizable" であると言いうるのか、その基準を示さなくてはいけない。そして、mulitple realizability がいやしくも哲学で語られるべき概念であるからには、その基準は普遍性をもたなくてはいけない。だが、いまだに誰一人として multiple realizability の明快で厳格な基準どころか定義すら与えてはくれないのである。これでは、ヒトのやることや昆虫のやることを指して、「あれも恋、これも恋」などと言っているのと同じである。
ただし、この議論からは、たとえばフェイク・ニューズの動画をどう規制するかという具体的な法令や規制についてのアイデアが汲み取れるかもしれないという効用がある。ヴァーチャルであることは、必ずしもフェイクや嘘やデマとして評価されるわけではないにしても、著者らの支持する認識論的な脈絡では、今度はヴァーチャルな映像(たとえば CG で制作した映画など)とフェイクの映像(YouTube や X で垂れ流されている、北朝鮮やネトウヨや小僧や馬鹿どもが生成 AI で作った動画)との違いがどこにあるのかという議論にならざるを得ないからだ。