Scribble at 2026-06-28 19:58:47 Last modified: 2026-06-28 20:59:25
日本の出版文化にいまでも根強く残っている傾向として、学術研究の分野ですら基本的にセンセーショナリズムやジャーナリズムという視点でものごとを調べたり考えたり理解する傾向があるということだ。その典型が、全共闘や全学連などの学生運動を、1960年代から1970年代の巨大なトレンドとして過大評価する傾向である。これは、都内で人文・社会系の出版社を経営している人々たち自身が学生運動に加わっていたという事実の反映であり、とりわけ社会科学の出版物の多くは、一時期の日本が学生運動を中心に動いていたかのような妄想なり自意識を当然のように前提して書かれたり出版されている。
しかし、簡単に調べるだけでもこれが全くの嘘であることは中学生にも分かる。まず、当時の「学生」運動の主役であったティーンエージャと二十代前半の大学生だが、18~23歳くらいとして仮定すると、23歳の大学生や大学院生が高校生だった頃の高校進学率は70%ていどであった。これが1970年代に90%にまで上がっていくのだが、おおむね平均すれば高校進学率を8割と考えてよいだろう。そして大学進学率を見ると、これは1970年代に入ってもたかだか20%ていどであったことが分かっている。つまり、学生運動とは言っても、その「学生」というのは、同じ世代の若者のうちで15%くらいの人々を指していたことになる。そして更に、実は大学生の中で学生運動に参加していたのは数%、高校生を足しても5%ていどだったと言われているので、これらを全て考え合わせると、同年代の若者の中で学生運動に参加していたのは0.7%くらいであったということになる。実数で言えば7万人ていどだ。これは、当時の理容師・美容師の見習いとなった若者の数と同じくらいである。しかし、日本の社会科学者や出版社が日本の散髪屋で起きていたことが日本の風習や思想に大きなインパクトを与えたとか、「理容業界の脱構築」だの「ポストモダン髭剃り」などというテーマで『現代思想』や『思想』といった雑誌に論説を掲載した事例など一つもない。だからといって、散髪屋よりも大学院生の方が社会的・思想的なインパクトがあることをやったのだろうか? それは、哲学者であると同時に出版業界にもいた僕に言わせれば、三流インテリにありがちな自己正当化や幼稚な美化にすぎない。正直、柄谷行人や西部邁といった俗物を「知の巨人」などと囃し立てている日本の出版業界の様子は、国際的なスケールで見るとトランプ大統領並みの子供じみた自画自賛にすぎない。
僕が常々、三島由紀夫の自殺なんて実際には日本の思想や生活に何のインパクトも与えていないと喝破しているように、そういうマスコミ受けする派手な事件や出来事だけで世の中が動くという子供じみた理解で社会なり社会科学を学んだり論じたりする幼稚な傾向から抜け出られなかったせいで、日本の社会科学(そして、その影響下にあったと言える人文系も)は三流のままに留まり続けて、吉本隆明が「知の密輸業者」と呼んだ古典の読書にしか興味がない外国語秀才だけが増えていったわけである。僕が当サイトで掲載している「英語の勉強について」というページでも力説しているように、ただ単に外国語を習得するということ、つまり外国語を流暢に扱えるだとか、おしゃれな会話ができるアタシって格好いいみたいな自意識だけが目的の勉強は身につかず、結局のところ自分自身のためにすらなっていない自己欺瞞に終わる。それと同じく、自分たちが関わったというだけの学生運動で何が起きたか、何を考えたかという脈絡でしか社会や歴史を考えたり語れないような俗物どもが、この国の社会科学や人文系の学問と出版を席巻してきたという反省なくして、そういうものにとらわれにくい、これからの若者に説得力のある講義や出版物を提示することは難しいだろうと思う。