Scribble at 2026-07-14 12:42:15 Last modified: 2026-07-14 12:47:38
日本では『世界は「関係」でできている: 美しくも過激な量子論』や『時間は存在しない』という翻訳書で知られているカルロ・ロヴェッリが、同じくイタリアのウルビーノ大学で教える科学哲学者のニコロ・コヴォニと組んで発表した、或る意味では「野心的」と言ってもいい論説が上の "Tractatus Quanticus"(量子論考)だ。気づく方も多いと思うが、もちろんウィトゲンシュタインの『論理哲学論考(Tractatus Logico-Philosophicus)』という著作を参考に、同じような箇条書きのスタイルで書かれている。カルロとニコロの「論考」で採用されているテーマは "relational quantum mechanics" と呼ばれている理論であり、あらゆる対象や事象を関係や関連という相対的・相関的なものとして捉える世界観を示している。
このような相関的なものの見方を据えると、たとえば「意識のハード・プロブレム」のように長年の難問とされてきた経験と物理的現実の境界についての説明は、パースペクティブ自体が他者にとっての物理的事実であることを忘れて両者を演繹的に切り離してしまう誤謬から生じており、関係として両者を地続きのものとして捉えれば、その難問自体が霧散することになるという。議論の詳細はともかくとして、少なくとも「ハード・プロブレム」が哲学として解明したり議論するような類の問題でもなんでもないという意見は、僕も賛成だ。こんな愚問や瑣事に悩んで見せるという "philotophy theatre"(哲学猿芝居)を、この国でも三流の物書きたちがせっせと演じているけれど、僕らのような哲学者から見れば本質的でもなんでもない、出版業界との馴れ合いで続けているだけのパフォーマンスにすぎない。少なくとも科学哲学のプロパーであれば、そろそろ「意識のハード・プロブレム」などという暇潰しに関わるのは止めるべきであろう。
ただ、これは少し前にもホワイトヘッドの「プロセス哲学」について語ったことと関連があるけれど、ヒトの認知能力には限界があるという明白な事実を無視して、ヒトの認知能力の範囲内で世界や事象や自然法則を認識したり、ましてや言語化し定式化できるという思い込みには何の根拠もない(というのが、僕の支持している「認知クロージャ仮説」だ)。したがって、スタティックな概念によって構成された哲学的な体系を、「プロセス」だの「力能」だの "emergence" だのという言葉で置き換えたらダイナミック(これは概念としての、であって言葉としてのではない)な推移や変化や出来事を捉えられるという考えも、言葉と概念とを同一視する、哲学としては基本的で未熟なレベルの誤謬である。そうしたタイプの学説を支持する哲学者が殆どいないのは当然なのだ。
そして同じく、ものごとを相対的だ関係だと表現してみただけのことで、ものごとを事象そのものの特性に応じて理解したり記述できるという思い込みにも根拠がない。いくらセンセーショナルな内容の通俗書を世界中で出版していようと、事象そのものへ(もちろん、それが何か向き合うに値する何かであるかどうかという疑いも含めて)向き合おうとすることだけでものを考える、われわれ哲学者から見れば、この手の過剰で、派手で、極端な定式化というものは、プレゼンテーションとしてはなにほどか効果的なのかもしれないが、そういうプレゼンテーションは出版社の企画部に対して行うべきであり、科学者のコミュニティに向かって問うものではあるまいと思う。
だが、このような徹底した相関的・相対的な議論は、非常に啓発的でもある。たとえば、認知クロージャ仮説は詳しく体系的に整備された議論ではないから、ここで批判されている「全体主義」の一種として批判しうるかもしれない。つまり、われわれの認識には限界があるという主張だけだと、その限界の内側では何事かを正確かつ厳密に認識したり解明できるという主張を含意しかねない。そこから、「内側の世界」を全体として理解しうるというところにまで行くと、これは制約内での全知ということになろう。もちろん、僕が支持する認知クロージャは、こんな「井の中のかはづ哲学」ではない。だが、「すべては相関的だ」という、ポモや元新左翼の編集者とか経営者がいる出版社が大好きなフレーズを想起させる、イージーな相対主義というアイデアには、やはりどうも抵抗がある。絶対という概念として定式化されるような条件なり set-up などありえないという主張は支持できるものの、そこから反転したときの結論があまりにも低俗で、安易で、堕落したものの考え方を容認してしまいやすいからだ。つまり、世界についての議論が簡単に個人のメンタリティに回収されてしまう傾向があるので、これをどうにかしたいという気分がある。