Scribble at 2026-09-22 18:43:48 Last modified: 2026-09-22 18:48:09
スマートフォンが登場した頃からの、いわば刷り込みと言ってもいいようなことだと思うのだが、みんなそんなにカメラって重要なのかね? 僕は、勤め先が大阪駅のそばだし、通勤だって船場エリアや大阪城の近くを通ってゆくから、もちろん観光客も含めて往来を行き交う人々を数多く眺めるし、出社した時は外食で立ち寄る店もあるわけだけど、歩行者だろうと店内で食事する人たちであろうと、そんなスマートフォンで撮影している人なんて滅多に見かけないものだ。観光客ですら、撮影なんてしてる人は10組に1組もいない。スマートフォンをカメラで選ぶなんてのは、たいていの人にとって無駄なコストをかけるだけの話であって、メーカーどころかメディアに誘導されているだけの愚行だと思う。
もちろん、何かを撮影することは誰しもあるはずだ。子供の運動会や学芸会や卒業式といったイベントなどは、多くの親にとって大切な撮影チャンスであろう(僕は、ずっとファインダー越しに眺めたり、撮影画面の様子ばかり気にして下を向いている親の様子をあまり良いことだとは思わないが)。あるいは、初めて入った店で映えるスイーツを撮影して SNS に投稿するとか。それらを一概に無駄だの愚かだのと言いたいわけではない。でも、はっきり言ってそんなことばっかやってるわけないし、それってせいぜい一年に何回かあるていどのことだろう。そのためだけにスマートフォンを最新版へ買い替えて、「プロレベルの撮影機能」なんてものを手にする必要があるんだろうか。
確かに、産業経済の理屈で言えば、今後も登場する技術をメーカーが低コストで提供するためには、一定の利益が必要であり、したがって無駄であろうとなかろうと一定の人数がスマートフォンを購入する必要がある。でも、その「必要」って経済学の理屈を成立させるために必要なのであって、あなたがた自身の人生にとって必要なことなのではない。君らは、産業経済学の理論を補完する生体部品なのか? あるいは Apple や Sony などのメーカーが産業経済学的に存続するためのビジネス・モデルのパーツであろうか。こういう、エコ系の左翼みたいなことを言うと、すぐにこういう反論が返ってくる。いわく、経済が停滞すると、おまえや家族が明日にでも診断される恐れがある病気ですら、低コストで治療できなくなるかもしれない。すべては経済において関連しており循環している。現代の経済システムにおいては、一部だけが「いい子ちゃんぶって」正義の消費だの正しい生産だのと、昔の言い方で言う「左翼小児病」のようなことをやっていては、国どころか世界規模の経済が回らないし立ち行かない。ひいては、その一部である医療や福祉にも大きな影響があり、規模の経済が通用しなくなると物価が跳ね上がって医療のコストも上がる。したがって、虫歯の治療ですら1回に数百万円もかかるようになってしまうだろうというわけである。
しかし、これは本当だろうか。それこそ経済学者の妄想ではないのか。たとえば、仮に「経済を回す」方が良いということを認めるとして、それが無駄に高性能なスマートフォンを買わなくては達成できないことだとは思えない。他にも同じことをするために寄与できる消費というものはあって、無駄に高性能なカメラがないとしても、高性能なバッテリーを内蔵したモデルであれば、多くの人たちが購入するとともに、それ自体はカメラの性能で選ぶよりもマシなことかもしれない。馬鹿げた想定や見込みで設計されたり製造された商品は、消費者として買わないという選択をすることによって、市場から排除できる。これも一つの「市場経済における社会正義」の実現なのであって、単に経済を回すことにだけ固執し、そのためであれば何をやってもよいというのでは、どう考えてもやっていることが知性ある存在の判断ではない。われわれは、そういう低レベルな産業経済学者のモデルを証明するために生きているモルモットではないのだし、やはり自分たちで考える価値観にしたがって選択すればよいのである。それを教えるのは、形式的にグラフが右上がりになりさえすればよいなどという生成 AI 以下の知能しかもっていない産業経済学者などではないのである。
僕が、「なんとか、なんとか学」をまともなレベルの学問として評価しないのは、そのパースペクティブやアプローチそのものが単なる部分最適化を自己宣伝してるようなものだからだ。自ら「これだけを対象にする」なんていうのは、自分で研究テーマを選り好みしています、視野狭窄でございますと言っているようなものだ。なので、僕の専門である「科学哲学」についても、僕は scientific philosophy(科学的な哲学)というニュアンスで使っているけれど、一般的には philsophy of science(科学の哲学)ということなので、いかにも部分最適化の見本という感じがして、アイデンティティとしては全く納得していなかったのだ。