Scribble at 2024-12-15 07:59:25 Last modified: 2024-12-15 08:16:18

考古学を学んでいた経緯から教えられたことの一つは、現に僕らが研究に使える史料として手元に残された遺跡や遺物を十分に活用すべきなのは当然だけれど、だからといって手元にある史料だけでものを考えてはいけないということもわきまえておくべきということだ。これは考古学の学生なら必ず叩き込まれることであり、僕自身も中学時代に末永雅雄、森浩一といった日本の考古学史に名を残すような方々から手紙や口頭で教えられたことである。たとえば、考古学では木材や皮といった材料で作られた品々について、日本の気候や土砂の中に埋まって堆積した状況から考えても、2,000年の年月を耐えるというケースは非常に珍しいことと考える。これは、歴史学においても似たような前提があり、たとえば奈良時代の一般庶民の識字率なり筆や墨の所持という条件あるいは何か記録を残す必要性などから言っても、一般庶民の生活記録などというものが残されている可能性は非常に低いと想定する。よく、遺跡や古墳などから金銀の装飾品だとか鉄剣や青銅の鏡が出てきたのなんのと、『インディー・ジョーンズ』さながらに好奇の目を向けてしか遺物を見ようとしない自称考古学ファンなどという人は多いわけだが、考古学の素養を正確に持っている人であれば、そんなことにいちいち驚いたりしないものである。なぜなら、そもそも数千年もの年月を耐えて遺物として残存するのは金属や鉱石や砂礫といった材質のものだからだ。したがって、それら現実に出てきている遺物だけでなく、本来なら何が一緒に埋葬されてしかるべきだったのかを推定する必要もある。僕が専門としていた古墳時代なら、古墳の石室に馬具が埋葬されていたことが分かったとすると、馬具の装飾部分として金属部品だけが遺体と一緒に埋葬されたのか、それとも皮や紐などを使った部品も含めた馬具全体が埋葬されたのかという違いは、些細なようであっても埋葬の習慣とか埋葬の考え方について教えられることもあるため、重要かもしれないポイントだ。これを、出てきた金銀財宝だけで語ろうとするのは、小説家や新聞記者、あるいは彼らの雑な読み物だけで古代史を学んだ気になっている素人だけだ。

これを哲学に応用すると、もちろんだがヘレニズムだけで古代の哲学史を語ろうとするのは、しばしば「謙虚さ」として自己アピールするような人もいたりするわけだが、思想史的なスケールから言えば殆ど怠慢と言ってもよいだろうと思う。もちろん、当時の色々な地域で展開されていた思想について学ぶだけにとどまらず、見知らぬ地域でも何らの哲学的な営為と呼べることがなされていたという「青い鳥症候群タイプの実在論」を仮定せよなどと言ってはいない。弥生時代に実質的な philosophizing をしていた人はいたかもしれないが、だからといって「日本の弥生時代の哲学」などと研究テーマを立てたり、その人物の研究を指導できる人はいまい。僕が、たとえば自然科学者でもケースによって実質的に philosophize することもあるという意味で、いわゆる教科書的な科学哲学者だけを相手にして科学哲学の歴史なり経緯を考えているわけではないというとき、僕は何か本を書き残さずして哲学的に重要な思索をしていた見知らぬ人物 A がアフリカのケニアにいたかもしれないなどという青い鳥症候群の議論を意図しているわけではないのだ。そういうことは、「隠れた天才的思想家」みたいな小学生並みの alternative フレーズで次の出版ネタを考えている都内の(実は無自覚な)左翼編集者どもにやらせておけばよい。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る