Scribble at 2024-12-15 07:28:11 Last modified: 2024-12-25 06:54:22

ベキ論、つまり normative あるいは ideal な議論としてはともかく、リアリティの話として言うと、科学哲学を学んだり研究するにあたって記号論理学や数理論理学の知識がどのていど必要かというのは、やはり大学の学科で教えられている現状においても、それから研究実務から言っても、疑問がある。

確かに、論理学の哲学を専門に学んでいる人にとって「或る程度の」知識は必要だろうし、何事かを研究するにあたって集合論なりモデル理論なり、いわゆる logic の定理などを利用するなら必要だろう。僕は何も、こんな自明のことに疑問を呈しているわけではない。でも、実際に神戸大学で学部どころか修士課程の TA をやった経験から言っても、科学哲学を学習するにあたっての prerequisite として、数理論理学の知識を前提にしたり求めたことはないし、そもそも僕ら自身が殆ど自分たちの研究や議論で使っていないし、その知識を前提すらしていない。たとえば、プロパーにも自問していただきたいが、あなたは自分自身の研究においてレーヴェンハイム=スコーレムの定理、しかも "upward" と呼ばれるタイプの定理を一度でも使ったり、それを前程してはじめて展開できるような議論をしたことありますか? この定理って、モデル理論の教科書なら冒頭の30ページあたりまでに出てくるような常識の類だと思うけれど、この定理を使って議論してる人なんて、後にも先にもプトナムくらいしか覚えてないわ。しかも彼は、この定理について議論していたわけだから、話題として取り上げるのは当たり前なのだ。

もちろん、改めて強調するが、哲学するのに論理学は不要だと言いたいわけではない。しかし、必要条件でないことは、実情としても、それから哲学的な思考の必要から言っても明らかだと思う。当然だが、論理学が必要ないからといって矛盾したことを考えたり述べていいわけはないが、これは論理学を学んでいることとは大して関係ないのだ。大学で論理学の授業を受けたからこそ人が論理的にものを考えられるように育つというわけではないのだし、逆に論理学の本を読んでいないからといって論理的な思考ができないわけでもない(ちなみに僕は「論理法則は人の心理の反映であるか、もしくは規範である」という descriptive / normative な心理主義者ではない)。僕らに最低限の能力として求められているのは、論理学の定理を知ってるかどうかとか、与えられた問題に回答できるかどうかなんていう、東大暗記小僧を頂点とした受験勉強的な能力なのではないし、それは哲学においても同じことなのである。たぶん、デリダやハイデガーはスタンフォード大学の論理学の大学院生よりも計算能力や論理学の知識においては劣っていたと思うけれど、それで彼らの業績なり哲学者としての才能を評価するなんてナンセンスも甚だしいであろう。

というわけで、いわゆる分析哲学や科学哲学を学ぼうとしている人には、そういう分野の著作物にしばしば論理式が出てくるからといって、そういう人々の議論を追うためには必要かもしれないが、みなさん自身が哲学するための素養として論理学が必須であるなんてことはないのである。

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